新しく開かれた晋王朝、しかし皇后となった賈南風のやりたい放題によって巻き起こされる八王の乱という嵐。
その賈南風、そして賈一族はその一族の血を引く司馬冏によって取り除かれました。
そして司馬冏も処刑されることになるのですが、それに関わった人物こそが司馬乂。
今回は八王の乱のメンバーの一人、もしかしたら歴史が変わったかもしれない存在、司馬乂を紹介していきましょう。
※注意※胃もたれするほど「司馬」が出てきますので胃薬のご用意などをおススメします。
長沙王・司馬乂
司馬乂は晋の初代皇帝、司馬炎の十七番目の子です。兄は恵帝・司馬衷、楚王・司馬イ、弟に成都王・司馬穎、後の懐帝・司馬熾らがいます。
司馬乂が長沙王になったのは十三歳の時のことでした。晋王朝は身内に権力を回すという方針であったため、司馬炎の子である司馬乂もその血筋に見合った立場が与えられたのです。
しかし291年、司馬乂の立場は一転します。兄である司馬イが汝南王・司馬亮と衛瓘を討ち、その後に罪人として処刑されたのです。司馬乂は常山王へと降格され、中央政権からは遠ざけられました。
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司馬ケイとの対決
301年、再び晋王朝の歴史が動きます。司馬倫による恵帝・司馬衷からの皇位簒奪、これに司馬ケイ、司馬エイ、司馬ギョウらによる三王起義に司馬乂も参加。
この際に司馬乂は趙で司馬倫の家臣らの城を陥落、討ち取り、司馬エイの元に駆けつけて味方の寝返りを見抜いてこれを討ち取るという大活躍、これにて長沙王への復権が許されました。
しかし次に始まったのは司馬ケイによる専横。司馬乂はこれに激しく憤り、弟、司馬エイと司馬炎の墓参りの際に「この天下は父上の築いたもの、お前もこれを護らなければならない」と言ったとされています。
この言葉からも、司馬乂の人物像が少し見えてきますね。
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疾風怒濤の働き
302年、司馬顒は司馬ケイの討伐を考えます。
この際に司馬ギョウはまず司馬乂を動かし、殺されてからそれを理由に司馬ケイの討伐をしようと企みました。が、この司馬乂は司馬ギョウの予想の遥か上をかっとんだ働きをしてしまうのです。
司馬乂は100人の兵士たちと共に宮中に乗り込み、まずは恵帝・司馬衷の身柄を確保。宮中であるにも関わらず建物に火を放って容赦なく矢の雨を降らせ、
「逆賊である司馬ケイを滅ぼすのだ!邪魔する者は五族滅ぼすぞ!」
三日三晩にこの攻撃は続き、その恫喝に恐れをなしたのか司馬ケイは取り押さえられて降伏させられました。こうして司馬ケイは討伐され、司馬乂は宮中一の権力を持つようになって……しまいました。
司馬乂討伐
司馬乂は恵帝・司馬衷に良く忠誠を誓い、何かを決める際には良く司馬エイと相談するようにしました。
が、そんな司馬乂は司馬エイ、司馬ギョウにとっては邪魔な存在でしかなかったのです。
そこで司馬穎、司馬ギョウは恵帝・司馬衷に
「乂は謀反人ですから討伐しましょう!」と手紙を送ります。
「何を言うか!司馬ギョウこそが私利私欲で動く悪人である!」
何とここまで自分の意見など言わなかった恵帝・司馬衷、司馬ギョウの討伐を司馬乂に申し付け、自身も出陣するとまで言い出しました。
しかし対峙する司馬ギョウ、司馬エイの連合軍はこの時点で二十万近く、包囲された司馬乂万事休す……かと思いきや大活躍し、何気にここで陸遜の孫を打ち破ったりして一転、司馬ギョウ、司馬エイの予想を再び覆すのでした。
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