西暦234年、蜀の丞相諸葛亮は五度目の北伐で司馬懿に敗れ失意の内に五丈原で陣没します。そんな孔明の柩は当然、劉備も眠る成都に埋葬されるかと思いきや、外ならぬ諸葛孔明の遺言で定軍山に葬られてしまいました。
オウ!マイガッ!水魚の交わり君臣の絆は永遠ではなかったのか?
今回は、どうして諸葛亮が劉備とは別々に葬られたのかを考えてみます。
この記事の目次
司馬懿と曹丕の墓は同じく首陽山にある
諸葛亮の墓について考える前に最大のライバルだった司馬懿の墓はどうだったか考えると、司馬懿は曹丕と同じ首陽山に墓を築いたらしい事が伝わっています。
司馬懿を引き立てたのは曹操よりも曹丕ですから、曹丕の墓の近くに司馬懿の墓があるのは、特別に違和感を感じません。もっとも曹丕は陪葬を認めなかったらしいので、近くに司馬懿の墓があるのは曹丕の許しを得ての事ではない可能性もあります。
でも、三顧の礼で迎えられ劉備の意志を継ぐ為に五度の北伐を為した諸葛孔明なら、同じ山ではないにしてもせめて同じ成都に墓があっても不思議ではない筈。それなのに、なんで遠く離れた漢中の定軍山に墓があるのでしょうか?
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仮説1劉備が嫌いになった
考えられる説としては、諸葛孔明は晩年の劉備に嫌気が差したというのがあります。三国志演義では、出会いから別れまで蜜月のように見える劉備と孔明ですが、入蜀を果たした劉備は益州の人士である法正にゾッコン惚れこんでいました。
法正は切れ者で巧みな軍才を持つ人でしたが執念深く、恩義には僅かな恩義でも必ず報い、恨みには髪の毛一筋の取るに足らない恨みでも必ず報復する苛烈な性格です。
ついには蜀郡の太守となり、かつて自分に恥をかかせた人間数名を何の法律にも基づかず、恣に殺害しましたが、諸葛亮はそんな法正を注意したりしませんでした。それもこれも、法正が劉備の信任が絶大な功臣だったからです。
一方で劉備は、孔明の諫めも聞かずに関羽の弔い合戦で呉に攻め込んで陸遜に大敗するなど、孔明に負の遺産を残しまくりました。
その中で水魚の交わりも色褪せ、死んだ後は劉備の近くにはいたくないという思いから成都から遠く離れた定軍山に墓を築いたのではないでしょうか?
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【北伐の真実に迫る】
仮説2 蜀を守る為に死んで盾になろうとした
諸葛亮の墓が劉備から遠く離れた場所にある理由には、もう1つ諸葛孔明が志半ばで散ったという事も影響している可能性があります。孔明は蜀を維持するだけでは足りず、滅魏興漢、すなわち魏を滅ぼして漢を再興するという狂気に似た信念を劉備から受け継いでいました。
しかし、魏を滅ぼして中原を回復するという悲願は達成できず、孔明は
(このままでは、あの世で先帝に顔向けできぬ。私の遺骸は定軍山に埋葬せよ。死して後も鬼となって蜀を守り、後を受け継ぎ魏を滅ぼさんとする者を助けよう)
こんな風に考え、劉備の遺志を達成していない事を理由に成都に葬られる事を拒否したのかも知れません。
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仮説3 肉体は漢中に魂は劉備の傍にある
今回の記事を読んだ人は、最初、違和感を持ったかも知れません。
「あれ?孔明の墓は武侯祠でちゃんと成都にあるんじゃないの?」
確かに成都には諸葛亮の武侯祠があり、さらに武侯祠の中には劉備の墳墓恵陵があります。
それを知っている人は、劉備と孔明はセットで葬られていると思った事でしょう。しかし、武侯祠はあくまで祠であって、そこに諸葛孔明の骨はありません。そもそも武侯祠は成都だけでなく中国には何か所もあるので、そこに孔明の骨がないのは当然と言えば当然なのです。
でも、これについてはこう考える事も可能でしょう。諸葛亮の肉体は、今でも蜀を守る為に定軍山で外敵に睨みをきかせていて、その魂は劉備と共にあり、死後も補佐しているのだと…これは、仮説3の方が今まででは、一番キレイな話になりますね。
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実は劉備も孔明も知らない所で全てが決まった
実は、この武侯祠のある場所、蜀漢が滅亡した時まで劉備の墓しかありませんでした。ところが、蜀が滅亡してから40年余り後に、成漢を建国した李雄が現在の場所に諸葛孔明の霊を祀る武侯祠を築いたのです。
やがて劉備の墓と諸葛亮の祠は、三国志演義の影響もあってか明の時代になると、劉備の墓が孔明の武侯祠に吸収される形で一体化されてしまったのです
と言う事は李雄が武侯祠を劉備の墓の近くに建立しなかったら、今でも劉備の墓と諸葛亮の墓は別々のまま存続し続けたかも知れませんね。夢が壊れてしまいますが、歴史というのは案外そんなものなのでしょう。
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武侯祠が出来たのは蜀漢の末期
劉備の墓と孔明の廟というセットは成漢の李雄のアイデアと言いましたが、実際には李雄がやらなくても遅かれ早かれ成都には、武侯祠が建てられ、劉備の墓と混ざったかも知れません。
襄陽記には、孔明没後、その遺徳を偲んで庶民が成都に孔明の廟を建てるように請願が相次いだとされています。
しかし、当時の朝廷は、家臣に過ぎない諸葛孔明の廟を建てるのは君臣の別を危うくするとして反対して請願を拒否しました。すると蜀の人々は、勝手に道端に諸葛孔明の祠を建てて祀り始めてしまったのです。
そこで劉禅は折衷案を取り、武侯祠を成都でもなく定軍山でもなく漢水の北に建てました。これは正しく魏との国境線であり、諸葛亮の霊力に劉禅以下蜀の朝廷が情なくも縋っていた証拠とも言えます。
こういう前例があったので、李雄は武侯祠を成都に建てようとしたのかも知れず、遅かれ早かれ武侯祠は劉備の墳墓の近くに出来、やがてそれを飲み込む運命だったかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は、諸葛孔明はどうして、成都ではなく定軍山に葬られているのか考えてみました。思えば定軍山で魏の夏侯淵を黄忠が討ち取った頃が、劉備軍団の全盛期のような気がするので、孔明はその頃の元気な劉備軍団の時代を懐かしんで、定軍山に遺骸を埋めたのかなと思えてきました。
まさか、定軍山の大戦果から10年の間に五虎大将が全部死に劉備も鬼籍に入るなんて、さしもの諸葛孔明も考えなかったでしょうから…
参考文献:正史三国志
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