【はじめに】
今回は、唐王朝の時代に登場した僧侶「玄奘三蔵」についてお話したいと思います。この人物は、小説『西遊記』の登場人物の「三蔵法師」のモデルとして、日本でも広く知られていますね。
ただ、『西遊記』に登場する三蔵法師は、どこか弱々しい存在で、主人公の「孫悟空」を始めとして、周囲に助けられてばかりです。実際、孫悟空の方が人気キャラクターとなっています。
『西遊記』は、数々の映画やドラマやマンガとして生まれ変わり、パロディ作品も生まれていますが、孫悟空の存在感が強いですね。二十一世紀の今、日本で生まれた、鳥山明作のマンガ(アニメ)の『ドラゴンボール』(1984年?)の主人公の「孫悟空」は、『西遊記』の孫悟空の知名度を上回っているように見えます。
話がそれましたが、前回では、中国王朝の唯一無二の女帝・武則天が、仏教を国教として、大仏も建立させ、日本も含めて東アジア全体に仏教ブームの切っ掛けを作ったのではないかとのお話でした。
しかし、それは、武則天の力というより、背後に、「玄奘」という偉大なる僧侶の力が働いたと、考えられるのです。今回は、玄奘の影響力の凄さを実感できるお話をしたいと思います。
前回記事:女帝・武則天は本当に稀代の悪女だったのか?則天武后の実像に迫る!
前回記事:日本も狙われていた?武則天の野望と反撃の狼煙のアジア情勢
玄奘(陳禕)は帝王の子孫だった?!
それでは玄奘の生い立ちについて解説していきます。玄奘は「洛陽」近くの現・河南省出身で、「陳」家の人でした。出家する前の俗名は「陳禕」と言われていました。そして、陳家は、代々太守などを勤めた名家の出身だったのです。
そもそも、この「陳」は漢民族古来の名字で、その名字をもつ者は、中国神話に登場する「五帝」という帝王の一人「舜」の末裔とされていました。
さらに、陳家の先祖は、中国の古代王朝の「殷」王朝を滅亡させた「西周」の「武王」(小説『封神演義』にも登場します。)に仕えていたと言われています。功臣であったため、陳の土地(現在の河南省淮陽区)を与えられたとのことです。それが陳の名字の始まりとされています。
ちなみに、女帝・武則天は皇帝に即位したとき、国名を「周」に改めました(一般的に「武周」王朝と言われています)。過去の「西周」王朝にあやかってということになるでしょう。しかも、その時の王は「武王」の名で、武則天にとって「武」繋がりで縁を感じさせるものだったでしょう。あやかるのは自然な流れでしょうか。
そして、その西周の武王の功臣であった陳一族の末裔かもしれないのが、玄奘だったのです。加えて、神話時代の偉大なる帝王が先祖かもしれないため、武則天から玄奘に対して、親近感と敬愛などの精神が生まれたと考えるのも自然でしょう。
仏教僧侶だからというだけではなく、むしろ、その家柄が、王家の血筋の可能性もあり、着目されたということなのだろうと思えてきます。日本で例えるなら、「一休さん」として名高い、室町時代の僧侶の「一休宗純」が近い存在かもしれません。天皇の子であったという説が有力です。
そもそも、仏教の開祖の「ブッダ」として知られる「釈迦」は、出家前は「ゴータマ・シッダールタ」で、釈迦族の王子だったというのが通説です。古今東西、王族の血筋というのは、庶民感情を惹きつけるものだったでしょうか。
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玄奘(陳禕)の偉業
それでは、玄奘の偉業についてざっくりと解説していきます。大まかには、以下のようになるでしょうか。
・ 天竺(インド)への陸路の旅を敢行した。
・ 『大唐西域記』を記した。
・ 600部余りほどの経典を持ち帰り、その多くを漢訳(中国語訳)した。
玄奘が27歳で天竺(インド)への旅立ちを決意した頃、唐王朝では、西域方面への出国を認めていませんでした。その中で、玄奘は、密出国を敢行したのです。ただ、その密出国を手助けする法師たちが次々に現れ、無事に西域へと旅立つのでした。
それは「求法」の旅と言われており、まだ当時、中国に渡ってきていなかった仏教経典を学び、真のブッダの教えに近づこうというものでした。旅の道中は、陸路で、過酷な砂漠の中も通り抜け、成し遂げたと言われています。馬に乗って移動することが多かったでしょうが、徒歩のときもあったでしょう。
その旅の道中、西域やインドの国々の王たちからの歓待を受けたり、初めは敵視する態度だったのが、仏教へ改宗(「ゾロアスター教」から)する王も現れたりしました。
中には、ラクダや象を貸してくれる王も現れ、ある区間では、それらに乗って移動することもあったそうです。そして、インド北東部にあった、当時、仏教の最大の学術研究機関であった「ナーランダー寺院」に到達するのです(長安を旅立ってから約3年経った頃でした)。
そこで、約200人ほどの僧侶たちの歓待を受けたようです。その地で約7年、周辺の寺院で3年で、合計約10年間、仏教の聖地近くで、玄奘は「大乗仏教」の経典を学んだと言われています。
その後、唐の都の長安に帰国します。出国時は、玄奘27歳、帰国時は43歳でした。合計約17年に渡る旅だったのです。帰国後は、持ち帰った経典を漢訳したり、その旅で見聞きしたものを『大唐西域記』として書き残したりしました。
玄奘が漢訳した経典は、その後、日本へも伝わります。中でも、『大般若波羅蜜多経(般若心経)』が最も有名でしょうか。
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時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
皇帝たちを虜にしていった玄奘(陳禕)
玄奘が、天竺(インド)の長旅から唐の都の長安に戻ってきたのは645年でした。帰国後まもなく、玄奘は、時の皇帝の「太宗・李世民」に謁見しました。その際、李世民に是非に政務に関わってほしいと請われたと言います。
その時、女帝・武則天は、まだ「武照」という名の女官で、李世民に後宮で仕えていたのです。その時、もしかしたら顔を合わせていたかもしれないのですね。他にも、次のような史実もあったようなのです。玄奘は、帰国後、亡くなるまで仏典漢訳などに従事し、長安の都やその周辺に滞在していたようですが(645年?664年)、
その間の大半は、唐の三代皇帝の「高宗・李治」の治世でした(649年〜683年)。李治と玄奘の間では使者を通してやり取りがあっただけでなく、657年に、李治が洛陽を訪問した際に、玄奘も付き従っていたとも伝わっています。
同じ頃、李治の皇后は武后(武則天)でしたが、武后が出産する直前、玄奘に向かって、生まれてくる子が仏教徒として出家することを願い出たというのです。玄奘は、それに応え、武后は喜び、袈裟を供養したという話が残っています。また、玄奘の死去の際(664年)、皇帝の李治は、嗚咽しながら悲しんだと言われています。
このように見ると、玄奘は、その生涯を通して、味方となる者たちが如何に多かったか?と感じられるようになってくるのです。ただ、それは、玄奘本人の「人徳」や「人格」の価値の高さ故ではないかと感じるのです。どんなに武力があっても、人徳や人格の高さには敵わないということが、玄奘の人生を見ていると分かってくるというものでしょうか。
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中国史ライター コーノの独り言
もしかしたら、玄奘が、ブッダの生まれ変わりか、「弥勒菩薩」に相応しかったのではないかとも思えてきます。
次回は、玄奘と日本との強い結びつきについて解説していきたいと思います。玄奘には日本人の弟子もいたのです。玄奘の意思は日本にこそ根付いたとも思えるエピソードも紹介する予定です。お楽しみに。
【主要参考文献】
・『玄奘 新装版 (Century Books 人と思想)』
(三友量順 著 ・清水書院 )
・『西遊記—トリック・ワールド探訪 (新赤版 666)』
(中野美代子 著・岩波新書)
・『隋唐帝国』
(布目潮渢 著栗原益男 著 ・講談社学術文庫)