中国王朝の唯一無二の女帝・武則天は、その所業から悪女のイメージが拭いきれない面が多いですが、周辺国には良い影響も与えたようです。それは、日本も例外ではありませんでした。
そのあたりを詳しく見ていきましょう。どうぞお楽しみください。
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武則天が男女同権の法律を作らせた?
─ 大宝律令への影響 ─
まず一つ目は、日本の法律の制定に与えたかもしれないと推察できることです。
法律とは「大宝律令」のことです。701年に制定された、日本史上初の「律令」と伝わっています。この法律は、中国の唐王朝の律令制度に多くを学び、模倣したと言われています。
ちなみに、
「律=刑法」
「令=行政法」
として理解して良いようです。
その大宝律令は元々、天武天皇の代(681年頃)に制定に向けて動き出したのです。
しかし、この頃の日本は、「白村江の戦い(663年)」で唐・新羅連合軍に大敗させられ、20年近く経っていたのですが、日本と唐との国交は断絶状況だったようです。
その状況下でも、多くの面で先進国としての唐の印象は紛れもない事実でしたので、日本の「大和朝廷」は、唐に学ぼうとしたのです。この頃の唐は、三代皇帝・高宗の代ですが、武則天が執政の立場でした。
つまり、武則天が皇帝即位(690年)する前、三十年もの間、執政として唐王朝を動かしていたのですが、それは大和朝廷に伝わっていたのかもしれません。大和朝廷での女帝の擁立に対して追い風となったのか?と想像を膨らませてしまいます。
また、「大宝律令」の注釈には、「女帝の兄弟は 男帝の兄弟の一種なり」との記述があります。これは、武則天が、大和朝廷に女性の尊厳向上としての力を与えたのか?とも想像してしまいます。
しかし、武則天の皇帝即位のことは、日本の大和朝廷には、702年末に遣使を派遣するまでは、知らされていなかったのです。それでも、武則天が、皇帝即位前に皇后として執政の立場で、事実上の権力を握っていたのは、その間30年もあった訳ですから、何かしらの経路でそのことが伝わっていても良さそうですね。
現時点では、資料不足のため、正確性に欠けるところです。ただ言えるのは、この時期、大陸の中国王朝でも、朝鮮半島でも、日本でも、女帝(あるいは女王)が連続して登場した事実があったことです。
そして、それを後押ししたのは、西方から渡来した、ある外来思想の影響によるものかと考えられるのです。これは、後ほど話していきたいと思います。お待ち下さい。
名は体を表す
─ 「則天文字」が与えた影響 ─
それでは、話を戻します。
武則天が与えた影響力として、次に「文字」についての影響があったということなのです。例えば、「元号」と「名前」です。詳しく説明していくと、武則天の武周王朝の時代、「則天文字」というものが作られました。武則天は、文字そのものに特別な神秘的な力が備わっていると考えていたようです。
それで、武則天が自らの権威を見せるために、特別に文字を作らせ、皇帝自身や王朝の発展を表す「サイン」にしたという印象です。皇帝自身や元号を表す字が主に使われていると推測されます。現在、有力な説では、十七文字ほどあると言われています。
例えば、以下の文字群を、それぞれ新たな象形文字へと書き換えた、という印象を与えます。『天、地、月、日、星、国、君、臣、人、年、正、照、載、初、授、證、聖』
(※今回は、『隋唐帝国』【布目潮渢 著栗原益男 著 ・講談社学術文庫】の文献を参考にして、以上の十七文字を取り上げました。)
これらのほとんどが、パソコン上で変換するには難しいですが、幾つか変換可能な則天文字を紹介しますと、
・星→◯
・地→?
・照→?
となります。
そして、特に、日本国内で知られているのは、以下の字ではないでしょうか?
・「国」→「圀」です。
この字は、江戸幕府の徳川時代、水戸藩・二代目当主「徳川光圀」の「圀」なのですね。「水戸黄門」としても名高い「光圀」公ですが、「黄門」という呼び名も、そもそも、「中納言」の「唐名」と言われています。
つまり、本名の「光圀」も、敬称の「黄門」も、どちらも「唐」の時代の影響力の強さを感じさせるものでしょうか。(※他の多くの則天文字は、パソコン上に変換することは難しいので、省略させてください。詳しく見たい方は、『隋唐帝国』【布目潮? 著? /? 栗原益男 著 ・講談社学術文庫】の127頁を参照か、「則天文字」をWeb検索してください。)
さらには、日本では「元号」にも影響を与えたようです。まず、中国王朝では、武則天が皇帝に在位していた期間、以下の、則天文字を含めた四字の元号が使われた期間があったのです。
「天冊万歳」(695年)
「万歳通天」(696年 ?697年)
です。
日本の元号も、ある時期において「四字の元号」だった期間が僅かにありました。
・天平感宝(749年)
・天平勝宝(749年?757年)
・天平宝字(757年?765年)
・天平神護(765年?767年)
・神護景雲(767年?770年)
しかも、「則天文字」にも使われた「天」が頻繁に使われています。この時期の日本の帝は、孝謙天皇、淳仁天皇、称徳天皇(孝謙天皇と同一人物)の代となります。孝謙帝(称徳帝)は女帝で、淳仁帝の在位の時も含め、孝謙帝は権力の中枢で発言力のある位置にいたという意見も強くあります。
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神秘の力は「天竺」より来たる
このように見ると、武則天の死後、半世紀後に、時も海も越えて、同じく女帝であった孝謙帝に強い影響力を及ぼしていたとも考えられます。ただこれは、武則天の単独の力かどうかと考えると、疑問を感じるのです。
やはり、武則天に影響を与えた偉大なる力というものに目を向ける必要があるでしょう。
それが、天竺(インド)からもたらされた仏教思想でしょう。どんな命も、生きている者には等しく、慈しむ気持ちで臨むべきというのが、仏教思想の根本です。男女同権の思想が出てくるのは当然なのです。
また、「仏教経典」などに書かれた文字に武則天が魅せられた可能性もあるのではないでしょうか?
「天竺」の天。
「武則天」の天。
日本の元号の「天平」の天。
これらに繋がりを感じざる得ません。
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時代を超えて愛される中国四大奇書「はじめての西遊記」
中国史ライター コーノの独り言
武則天は、何と言っても、皇帝に即位してから、仏教を国教待遇にさせた人物です。自らの権力を維持するために仏教を政治利用しただけとは思えない行動をしていると感じます。
その辺を次回は探っていきたいと思います。お楽しみに。
【参考文献】
- 『則天武后』
(外山軍治 著・中公新書 )
- 『則天武后 』
(氣賀澤保規 著・講談社学術文庫 )
- 『隋唐帝国』
(布目潮渢 著/栗原益男 著 ・講談社学術文庫)
- 『古代遊牧帝国 』
(護雅夫 著 ・ 中公新書)
- 『女帝の古代日本』
(吉村武彦 著 ・ 岩波新書)
- 『南方仏教基本聖典』
(ウ・ウェープッラ 著・中山書房仏書林)
- 『慈経/宝経/吉祥経 【初期仏教経典解説シリーズ㈿】』
(アルボムッレ・スマナサーラ 著・サンガ)
- 『キャラ絵で学ぶ! 仏教図鑑』
(山折哲雄 監修・いとうみつる 絵・小松事務所 文・すばる舎)