陰陽師は、古代日本の律令制下で中務省の陰陽寮に属した官職の1つです。夢枕獏の小説「陰陽師」で式神を駆使して鬼と戦う安倍晴明が大ヒットしたせいで、陰陽師は鬼や悪霊を祓う魔法使いのような誇張されたイメージになりました。
でも、実際の陰陽師は人畜無害でちくちく暦を作っていただけかというと…事実は面白いもので、そう単純なものでもなかったのです。
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占いマニア天武天皇のお陰で陰陽師誕生
陰陽師は全ての事象が陰陽と木火土金水の五行の組み合わせで成り立っていると考える古代中国の陰陽五行説をベースに五行と密接に関係している天文学、暦学、易学、時計などの知識を把握した役人です。
陰陽五行思想は飛鳥時代に、朝鮮半島か中国からの五経博士や易博士の渡来で伝承されますが、当初は政治文化に影響を与える程ではありませんでした。
しかし、推古天皇の時代に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとする選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む学問を伝授した事で、その思想が日本の国政に影響を与えるようになります。
7世紀末に即位した天武天皇は自ら戦の吉凶を占う天文や遁甲の達人で日本初の占星台を設けるなど、陰陽五行思想に造詣が深く次第に朝廷の文書に陰陽という言葉が出てくるようになりました。
こうして718年の養老律令で中務省の内局に小寮としての陰陽寮が設置されます。陰陽寮には技士として天文博士、陰陽博士、陰陽師、暦博士、漏刻博士が設置され公的に占いを職務とするようになりました。
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陰陽師の初期の役割
陰陽寮は四階級制で長官が陰陽頭、以下は事務方である行政官と技官として各博士と学生、その他に庶務職が置かれました。技官の方が事務方より地位は下なんですが、大陸伝来の学問だけに諸学問に通じ漢文読解能力に長けた渡来人が任命され、実力主義である事から民間人からも登用されています。
陰陽寮成立初期の技官は、純粋に風水占いや天体観測、占星術、暦の作成と水時計の時刻管理を担当していて、神祇官や僧侶のように宗教的な儀式や呪術はほとんどしませんが、宮中で建物の修理をおこなう日取りの選定や土地と方角の吉凶を占う遷都の時には重要な役割を果たしていました。
また陰陽五行は門外不出の学問とされたので陰陽師たちは選ばれた技術者でもあり、朝廷内において独自の地位を築いています。
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桓武朝の怨霊ブームで陰陽師に変化が
陰陽師は朝廷の重要な決定を占う重責を担っていましたが、中務省の内局である関係で地位が相対的に低く、天皇に上奏する権利があるのは従五位下の陰陽頭だけで、後は直接目通りを許されない地下官人でした。
しかし、785年藤原種継暗殺以来、身辺に被災や不吉な事件が起き続けすっかり怨霊に怯えるようになった桓武天皇が平安京に遷都すると朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術による強力な恩恵を求める風潮が強くなります。
この風潮を背景に古神道に加え道鏡色の強い呪術が注目されはじめました。
元々、これらのオカルトには、典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが担当していましたが中臣鎌足の時代に廃止され陰陽寮に統合されて陰陽寮は道教、密教、または仏教の呪法や宿曜道、古神道まで様々な要素を包括するようになりました。
怨霊を恐れ、また呪術を利用して権力拡大を狙う公家たちは、相手勢力の失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道を利用します。こうして陰陽師は、それまで無縁だったオカルト方面に重用されるようになり、現在のイメージに近くなりました。
律令が形骸化し呪術廻戦な陰陽師登場
743年墾田永年私財法が発布され、大貴族や寺院の私有地で免税地である荘園が全国に拡大すると、大和朝廷の財政収入が激減して全国支配が出来なくなり律令も形骸化していきます。
この中で、門外不出だった陰陽道の秘術も民間に流出するようになり陰陽寮に所属していないヤミの陰陽師が登場し、私的に貴族と結びついて吉凶の占いや時には呪殺を生業とするようになります。
さらに、陰陽寮に所属する正式な陰陽師の中にも律令の枠を飛び越えて天皇や皇族、公家に個人的に仕え、方位の吉凶や占星術で恣意的な助言をし迷信深い貴族や皇族の精神をとらえて政治の闇で暗躍するダークな陰陽師も登場しました。
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