永安攻防戦は、西暦264年蜀滅亡後に起きた呉の陸抗と蜀の羅憲の激突です。
本来なら蜀は滅亡しているので戦争にはならない筈ですが偶然の要素が幾つも重なり、世にも珍しい蜀滅亡後の戦争が発生しました。一般に呉の火事場泥棒的侵略が非難されますが、今回は呉の立場から永安攻防戦を見てみたいと思います。
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劉備が没した象徴的な土地
永安は元々、白帝城と呼ばれ夷陵の戦いで敗れた劉備が病没した土地です。長江を遡った途中にあり、荊州に出るには重要な戦略拠点です。
蜀と呉は同盟を結んでいたので、西暦257年頃には呉の朱績より魏を牽制したいので、有力な武将を永安に派遣して欲しいと要請があり閻宇が都督として赴任しています。これは魏が荊州に攻め込んできた場合、蜀軍が長江を下って呉と共同で魏に対抗する構えを見せるという事でした。
戦略上の重要拠点だった永安ですが、蜀が魏に滅ぼされた事で状況が一変します。
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孫休はただの火事場泥棒ではない
西暦263年、蜀が魏の鄧艾により滅ぼされると呉の孫休は援軍を送ると見せかけて盛憲という将軍を永安攻略に送り込んできます。
この時、永安で留守を守っていたのが羅憲で呉の変節に怒り徹底抗戦を決意したのですが、これは羅憲の一面的な見方であり孫休にも言い分がありました。
蜀が滅亡した場合、呉は北方と西方の両方から魏の挟撃を受ける事になり、不利な二正面作戦を余儀なくされるのです。実際に鄧艾も蜀を滅ぼした後に造船に励んでいる事から、挟撃の可能性は十分あったと考えられるでしょう。
永安さえ奪取できれば魏軍が大船団で長江を下る最悪の事態を牽制できるので、孫休としても、火事場泥棒と謗られてもやらねばならぬ決断でした。
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陸抗が出撃した理由
永安を奪取したい孫休にとっては好都合にも成都で鄧艾と鍾会が死に、一時的に成都から魏の影響力が焼失する事件が起きます。ここで孫休は陸遜の子で名将の陸抗に3万の大軍を与え派遣しますが、陸抗は北の魏への備えと西の永安地域を管轄する鎮軍将軍でした。
陸抗の管轄に永安が入っているのは、なかなかに意味深で蜀が健在の頃から隙あらば永安を奪い取りたい意図があったのでしょう。
長年の同盟関係であった蜀と呉ですが、共通の大敵魏あればこその同盟であり、そこを離れた所ではなんとか領土を拡張しようと暗闘していた様子が窺えます。
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胡烈の救援で作戦は失敗
3万の陸抗に対して羅憲は僅か2千であり籠城を余儀なくされました。ここで羅憲は呉の侵略を免れる為に自分の子と劉禅から受けた印綬を参軍の楊宗に託して呉軍の包囲を突破させ魏の安東将軍陳騫への使者として派遣し救援を請います。
面白いのは、すでに劉禅が降伏しているにもかかわらず羅憲が改めて印綬と人質を差し出して降伏の意を示している点で、この段階で司馬昭は羅憲が蜀の滅亡に殉じて滅ぶか?あるいは呉に降伏して呉臣となるか意図を計りかねていたのかも知れません。
しかし、羅憲が機転を利かせて人質と印綬を送った事で魏は救援の大義名分が立ち、胡烈を派遣する事で呉の包囲を解く事に成功するのです。
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やぶへびになった孫休
魏軍の援軍を得て戦いに勝利した羅憲ですが、その後、武陵郡の4県が呉に叛きます。羅憲は引き続き巴東監軍と勤めると同時に武陵太守を兼任。晋が建国されると引き続き仕えて、今度は呉を攻略する計画を立てるなど呉にとって脅威になっていくのです。
今となってみれば、孫休も初動で奇襲をかける卑怯な事はせず羅憲に呉に投降するように呼び掛ける手もあったかも知れませんが、しかし羅憲は、降伏した劉禅の為に3日間喪に服すような人であり、呉に寝返るように説得しても結局はやぶへびだったのかも知れません。
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