やはりマイナー?あなたは何人知っている?三国志末期の名将たち




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北方謙三風ハードボイルドな豪傑(曹操・劉備・孫堅)

 

「三国志」について多くの人にとっての興味は劉備(りゅうび)曹操(そうそう)孫権(そんけん)、そして諸葛亮(しょかつりょう)らが活躍している時代ではないでしょうか。なので、彼らが退場してしまった後はどうしても興味が薄くなりがちです。

 

北方謙三 ハードボイルドな孔明

 

実際、多くの創作物でも諸葛亮が亡くなった「五丈原(ごじょうげん)の戦い」で物語が終わってしまう場合があります。しかし、その後も活躍した武将はいますので、今回の記事では「三国志末期」の時代に活躍した名将を紹介します。

 

病気がちな孔明

 

なお、私が設定した「三国志末期」は諸葛亮が亡くなってから三国が統一されるまでの期間(西暦234年〜280年)となります。

 




魏の武将「王淩」1. 統治能力に優れる

王淩

 

王淩(おうりょう)(171〜251)は呂布(りょふ)をそそのかして董卓(とうたく)を殺させたことで有名な「王允(おういん)」の甥にあたる人物です。

 

クーデーターを起こす王淩

 

王允は殺され、都の混乱の中、兵に追われましたが兄と共に城壁を乗り越えて故郷に逃げ帰ることに成功しています。後に故郷で役人として実績を上げ、曹操に認められ中央に出仕することになります。

 

呂範

 

王凌が名を上げたのは張遼と共に呉の征伐に赴いたときです。呉の「呂範(りょはん)」が襲撃してきた際、これを撃退し多数の捕虜と舟を手に入れ、この功績で青州(現在の山東省)の長官に任命されます。当時の青州は戦乱で荒廃していました。王凌はその地の法律を整え、治安を立て直して青州の住民に深く感謝されています。

 

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魏の武将「王淩」2. 司馬懿に反旗を翻す

王淩(おうりょう)と司馬懿

 

その後は「石亭(せきてい)の戦い」で敗れ、呉軍に包囲されますが、王凌は奮戦し包囲を突破。大将の「曹休(そうきゅう)」を逃がすことに成功しています。

 

全琮

 

241年には侵攻してきた呉の「全琮(ぜんそう)」の数万の軍を迎え撃ち、撃退し「司空」「太尉」という国防長官に相当する地位まで上がりました。

 

司馬懿

 

当時は司馬懿(しばい)をはじめとする一族が幼少の魏帝を思うがままに操っていました。王凌はこれを憂い甥と共に、才能があると言われた曹操の息子「曹彪(そうひょう)」を擁立し、幼少の帝を廃立し司馬一族を排除しようと計画します。

 

賈逵(かき)

 

しかし、事前に計画は漏れ、服毒自殺します。その直前に「賈逵(かき)」の廟の前を通りかかった際、「王凌が立ち上がったのは曹家の為なのですぞ!」と叫んだといいます。賈逵は曹家に人一倍忠誠を誓っていた人物でした。なお、小説「三国志演義」では一文字も登場しません。

 

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呉の武将「陸抗」羊コとの奇妙な関係

陸抗

 

陸抗(りくこう)(226〜274)は呉の名将「陸遜(りくそん)」の子です。陸遜は孫権(そんけん)と対立し憤死しましたが、陸抗も孫権から20項目にわたり詰問されました。しかし陸抗は誰にも相談せずにその詰問全てに釈明し、のちに孫権は謝罪しています。以降は魏との戦いで功績をあげ、蜀の滅亡後は西方の魏との最前線に赴任します。

 

羊コ 羊祜 魏と晋

 

ここで陸抗は何度も魏、そしてそれを滅ぼした晋の侵攻を退けます。一番の激戦は江陵(現在の湖北省荊州市)での晋の将、羊祜(ようこ)が攻めてきた時でした。最後は陸抗が羊祜を撃退しますが、羊祜は撤退したのち、呉の人民の支持を得ようと呉との国境付近で善政を行います。これに対抗し陸抗も善政を行い、国境付近には平和な時間が訪れました。

 

羊コと信頼の関係を築く陸抗(りくこう) 羊祜

 

陸抗と羊祜はお互いを尊敬し、信義を深めました。陸抗が病気になったときは羊祜が薬を贈り、陸抗は酒を贈りました。2人は疑いなくそれらを飲んだといいます。陸抗は呉の孫皓(そんこう)の暴政を憂いていましたが、呉が滅びる6年前に亡くなっています。

 

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蜀の武将「張嶷」3. 異民族慰撫に活躍

張嶷

 

張嶷(ちょうぎょく)(?〜255)は益州巴西郡(えきしゅうはせいぐん)(現在の四川省南部)の出身です。貧しい生まれでしたが、役所で事務員として働いていました。

 

南蛮族を仁愛を持って従わせる張嶷

 

そんな時役場は山賊に襲撃されたのですが、張嶷は自ら剣を奮い山賊と戦い、その勇名が知られるようになりました。その評判は劉備にも届き、張嶷は将軍として働くことになったのです。その後彼はもっぱら南方の異民族の対応に当たり、その恩愛と信義で多くの異民族を帰順させることに成功しています。

 

逆らう者には策略をもって戦い、帰順させました。後に張嶷は成都(蜀の首都)に戻ることになりますが、人々はそれを惜しみ、涙を流したといいます。

 

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蜀の武将「張嶷」4. 陳寿も見た勇将ぶり

病気で寝込む張嶷

 

その後は風土病にかかり、体の自由の利かない状態でしたが、姜維(きょうい)に従って北伐に従軍することになりました。そして魏の武将「徐質(じょしつ)」(徐晃(じょこう)の息子)と戦い、多数の兵を倒しましたが、ついに戦死してしまいます。

 

その報を聞いた異民族の人々は悲しみ、廟を建てて彼を祀ったといいます。

 

正史三国志を執筆する陳寿

 

正史「三国志」において著者「陳寿(ちんじゅ)」は淡々とした記述で、最後に簡単な「評」を書いているにすぎず、彼の肉声は殆ど見られません。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志(本)書類

 

しかし、「三国志張嶷伝」の「注」(追加の文章)の中には張嶷について「私(陳寿)は張嶷の容貌、動作、言動を見たことがあったが、特に驚かされるものは無かった。しかし、その勇敢さと壮烈さは素晴らしく、古の英雄にも劣らないほどだ。」と自らの体験から絶賛しています。

 

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三国志ライターみうらの独り言

みうらひろし(提供)

 

三国志末期にも意外に人材はいるものです。小説「三国志演義」は諸葛亮の死後は盛り上がりに欠けるので、どうしてもその時代の人物はマイナーになりがちです。これからはそれらの人物にもスポットが当たれば面白いですね。

 

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コメント

  • コメント (1)

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    • 匿名
    • 2021年 9月 26日

    羅憲が入ってない…




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