今回は、古代日本とも親交が深ったと伝わる「渤海国」についてのお話です。どうぞご一読ください。(※「渤海国」と明記したのは、地名の「渤海」と区別するためです。)
この「渤海国」とは、朝鮮半島北部から中国東北部からロシアのウラジオストク辺りも領土に含めた、7世紀末〜10世紀初めに存在した国と言われています。20世紀になると、「帝国時代(帝国憲法【明治憲法】時代)の日本」が、その傀儡政権の「満洲国」を渤海国の復活と位置づけるという事態がありました。
この記事の目次
韓国、北朝鮮、中国が主張し合う渤海国
今世紀では、韓国や北朝鮮、中国(中華人民共和国)の、それぞれの国が、自身の先祖たちが築き上げた国だと主張し合う状況もあるようです。現在も議論を呼び、未だに決着をみないとも言われています。
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渤海国の信頼性の高い説・旧高句麗系
信憑性の高い説としては、旧高句麗系や「靺鞨」(農耕漁労民族と言われる)民族や、「唐帝国」に滅亡させられた諸々の部族により構成されていた、いわゆる連合王国という認識が合っている印象です。
ここで、渤海国の建国期?発展期の流れを簡単に説明します。まず、初代国王・大祚栄によって建国され、遊牧民族勢力の「契丹」から分離独立します。
二代国王・武王「大武芸」は領土拡大し、三代国王・文王「大欽茂」は対外戦争を避け、文化国家として盤石にしました。その後は、文王の方針を受け継いだか、対外戦争を避ける傾向が目立ち、文化国家として繁栄し、経済的にも豊かさを保ち続けたと伝えられています。国家(新政府)誕生後、初代の王(君主)から三代目の王までに、発展と成熟を迎えるという流れになっていると言えるでしょうか。
日本史上でも、室町幕府の足利将軍家や江戸幕府の徳川将軍家が辿った道も似ているとも言えそうです。さて、それでは、渤海国がどのように建国されたのか?
詳しく見ていきましょう。
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前史 高句麗を受け継ぐ者たち
まずは、建国直前、エピソード0からお話します。7世紀後半のことです。紀元前1世紀〜7世紀後半に存在し、最盛期には朝鮮半島北部から中国東北部にかけて繁栄した王国「高句麗」は滅亡の時を迎えようとしていました。
668年、中国王朝の「唐」と朝鮮半島南部にて急速に武力を伸ばしてきた王国「新羅」が連合し、高句麗を攻撃し、滅亡に追いやります。滅亡時の高句麗の最後の王は、「宝蔵王」と呼ばれている人物でした。
滅亡後の翌年には、「宝蔵王」の外孫の「安勝」という人物が、「新羅」の支援を受けて唐に反乱を起こし、鎮圧されるという事件がありした。それに続いて、唐に従わない勢力が反乱を各地で起こしたようです。
そのような事態に対して、唐は高句麗の最後の王の「宝蔵王」を、遼東半島付近(現在の「遼陽」や「撫順」)に、【安東都護府】の管理監督として、名目は「朝鮮王」として冊封されます。しかし、「宝蔵王」は、近隣の諸民族と組んで反乱を起こしますが、敗北し、四川に流され、そこで死去します。(682年頃)
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建国の原因は女帝「武則天」だった?
そして、中国王朝の唐帝国では、三代皇帝「高宗」が死去して数年後の690年に、その皇后の武后が、女帝に即位します。女帝・武則天の登場です。「唐」の国名が一時的にも廃止され、「武周」王朝と呼ばれるようになりました。
すると、「契丹」と言われる半農半牧民族の勢力が武周へ反乱を起こしたのです。中国王朝史上初の女帝が誕生したことで、周辺の遊牧民族たちは、与し易しと反撃の狼煙を上げたと言えるかもしれません。しかも、契丹の軍勢は、幽州(現在の北京)まで押し寄せてきたのです。
武周帝国の武則天は、モンゴル高原に勢力を拡大していた遊牧民族の「東突厥」(「突厥第ニ帝国」とも呼ばれる)と組み、契丹をほぼ平定させます。しかし、その契丹の残存勢力が登場するのです。
そこに、渤海国の初代王となる「大祚栄」が率いる勢力がいたと言われています。大祚栄の勢力は、元々、高句麗遺民として、高句麗滅亡後、「営州」(現在の遼寧省・朝陽市付近)に強制移住させられていたようです。
大祚栄の出自は、旧高句麗の領域内に住んでいた、高句麗系か、それに従属していた「靺鞨」系が混合した部族たちの子孫という見解をもつのが誤解されず無難なようです。契丹勢力の反乱の最中に乗じて、東へと移動し、独立し、建国したのです。
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日の出づる国の意味があった?
初め、その国は「震」と呼ばれたと伝わっていますが、それは中国王朝側の視点で書かれた歴史書によるものです。また「振」国とも表記されることもあるようです。震(振)は、始まりや再興を意味し、大地の震えは、新たな事が起きる前触れだという感覚があったのかもしれないのです。
また、「辰」(龍)にも通じる字です。龍は、中国王朝の皇帝の象徴ともされてきた歴史があります。さらに、「辰」を十二支の方角で置き換えると「東南東」(ざっくりと言うなら東の方角)を指します。そこから「晨」の意味もあるとも言われています。
つまり、東の方から日が昇るという意味での「あかつき」です。それは、「日本」の国号の由縁として、(アジア大陸から見て)日が昇る東の方角にある、日ノ本の国で、「日の出づる処」にある国と言われてきたのと似ている印象です。
ということは、明るいプラスイメージになるので、「震(振)」の国名を、大祚栄自身が積極的に使うことを受け入れていたのかもしれないですね。
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遊牧民族帝国 VS 武周帝国の抗争に乗じて勢力伸ばしたか
さて、契丹の反乱がいったん収束すると、一時的に連携していた「武周帝国」と「東突厥(突厥第二帝国)」の間に亀裂が入り、衝突が起こります。大祚栄は、建国後、武周帝国と東突厥の対立のときは、東突厥に接近します。
さらに、中国東北方面(満洲と呼ばれた地域)の諸勢力(靺鞨系の部族)も東突厥と組んだと言われています。
そうなると武周側は劣勢に立たされたのです。こういった事情もあって、武周帝国の武則天は、大祚栄の国を含めて、中国東北方面(特に「旅順」より東北)を鎮圧することを諦めざる得なくなったということなのです。(703年頃のことでした。)
これにより、大祚栄の独立国家は存在感を増すのです。また、この争乱で幾度も敗北してしまった武則天は、多くの家臣たちから信頼を失う結果となってしまったと言えるでしょうか。
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唐の復活と渤海国の誕生
705年に武則天が亡くなり、唐の国号が復活し、「中宗」(唐の高宗と武則天の息子)が再度即位します。中宗は、大祚栄に唐への帰属を促し、友好関係を保とうと迫ってきます。すると、大祚栄はそれに応える形で、息子の一人「門芸」を人質として送り、皇帝の護衛の兵士として宮廷へ仕えさせるのです。
712年になると、唐では「李隆基」が皇帝に即位します。「玄宗」皇帝の登場です。翌年の713年、大祚栄は、その唐の玄宗により、「渤海郡王」として認められます。このときに「渤海国」が誕生したのです。
ただ、この玄宗皇帝による処置は、渤海国に対する好意というよりは、周辺国への危機意識からくるものだったのでしょう。つまり、当時、中国北部のモンゴル高原付近で大勢力を築いていた「東突厥(突厥第ニ帝国)」の脅威があり、そのための対抗処置として、その周辺国家とは友好を保とうとしたと考えられています。
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おわりに
それでは次回は、二代目の武王「大武芸」、三代目の文王「大欽茂」の、渤海国の発展期についてお話します。お楽しみに。
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【主要参考文献】
・『渤海国の謎』
(上田雄 著 / 講談社現代新書)
・『渤海国とは何か (歴史文化ライブラリー)』
(古畑徹 著 / 吉川弘文館 )
・『隋唐帝国』
(布目潮渢 著 栗原益男 著 ・講談社学術文庫)