三国志の二次創作や調べ物において、とっても時間を取られるのが○○の戦いが起きた場所です。
三国志の戦いで検索すれば色々なマップが出て来ますけど、大抵は赤壁とか五丈原の戦いが多く、
マイナーな戦いは探すのが苦労するのがお決まりパターンです。
そこで、はじめての三国志では、三国志の主要な戦いのマップデータを作成しました。
今回は反董卓連合軍を巡る、3つの戦い、卞水、河陽津、陽人の戦いについてデータ化します。
反董卓連合軍メンバー
●酸棗駐屯組
・喬瑁(東郡太守)
・張邈(陳留太守)
・衛茲(張邈配下)
・袁遺(山陽太守)
・曹操(無役)
・鮑信(済北国相)
・鮑韜(鮑信の弟)
・劉岱(兗州刺史)
・張超(広陵太守)
・藏洪(張超配下)
●南陽駐屯組
・袁術(後将軍)
・孫堅(長沙太守)
・李旻(潁川太守)
●鄴駐屯組
・韓馥(冀州牧)
●潁川駐屯組
・孔伷(豫洲刺史)
●河内駐屯組
・王匡(河内太守)
・袁紹(渤海太守)
●駐屯地不明
・許瑒(許靖の従兄)
・崔鈞(催烈の子)
・劉表(荊州刺史)
董卓軍メンバー
・董卓(相国)
・胡軫(大都護)
・徐栄(中郎将)
・呂布(騎督)
・華雄(都尉)
①卞水の戦い
初平元年(西暦190年)3月、酸棗に駐屯していた曹操、鮑信、張邈らは消極的な袁紹らに業を煮やし董卓軍に戦いを挑んだ。しかし、滎陽の汴水で董卓配下の徐栄に大敗し、張邈軍の衛茲、鮑信軍の鮑韜らが戦死。曹操も矢傷を負った。
徐栄は酸棗の軍が寡兵ながらも奮闘する様子を見て、酸棗を落とすのは時期尚早と帰還。
この後、曹操は酸棗に帰還し、諸将の前で自分の計略を語ったが不採用。
曹操は兵力不足を補う為に夏侯惇と共に募兵の為に揚州に移動した。
戦死:衛茲、鮑韜
②河陽津の戦い
初平元年冬、河内太守王匡は董卓を襲撃するために河陽津に軍団を集結させる。
しかし、董卓は陽動作戦を用いて王匡軍の背後をつき王匡軍を大いに撃破した。
③陽人の戦い
190年、孫堅は徐栄に梁の東部で敗れ、潁川太守の李旻が捕まり煮殺された。
191年、孫堅は敗残兵を集めて、梁県の陽人に駐屯。同年2月、董卓は大都護の胡軫・騎督の呂布を派遣し陽人の孫堅を攻撃させる。
しかし、呂布と胡軫は仲違いしており、呂布は胡軫を敗死させようと孫堅が敗走したと誤情報を流した。そこで、胡軫は呂布と徹夜で軍を進めたが、陽人城の孫堅は固く守っており勝てそうにもなかった。
胡軫が鎧を脱いで寛いでいると、再び呂布が孫堅が攻めてきたと誤情報を流したので胡軫は慌てて逃げたが敵はどこにもいなかった。夜が明けて、再び陽人城を攻めようとするも、相変わらずの固い防備なので、有効な攻撃も出来ず撤退する。
孫堅は、それを見て出撃し大いに董卓軍を破り、董卓軍の都尉、華雄を討ち取った。陽人の勝利後、孫堅は戦いを優位に進め、董卓は形勢不利と見て、洛陽を焼き払い長安に撤退した。
戦死:華雄
反董卓連合軍の崩壊
孫堅は袁術により、豫洲刺史に任命されていたが、袁紹は周喁を豫州刺史として派遣。双方は譲らず、孫堅と袁術は、周喁、周喁の弟、周昕・周昂と豫洲を奪い合う事になる。
これを契機に袁術と袁紹が決定的に対立し、反董卓連合軍は崩壊し、多くの武将が己の勢力伸長を目指す群雄と化した。長安遷都後、後漢王朝の力は関中の西には及ばなくなり、動乱の時代が幕を開ける事になる。