西暦200年、兄孫策の非業の死を受けて、19歳で呉の当主となった孫権。
その人柄は、謙虚で腰が低く、部下の意見にも素直に耳を傾け、古参の武将達が言う耳の痛い諫言にも応じる度量がありました。
かと思えば、孫権は、護衛もつけずに、他の領主の土地まで駐屯したり、虎狩りのような命の危険があるスポーツを好むなど、父、孫堅、兄、孫策を彷彿とさせる激しい気性も持ち合わせています。
しかし、いかに孫権が優秀でも、そこは人間です。孫権にも、非常に周囲に評判の悪い、悪癖が存在していました。
孫権の悪癖ってなに?
それは何かと言うと、ズバリ「お酒」だったのです。
若くして、呉の領地と家臣団を任された重圧からか、元々から酒が好きだったのか、孫権は酔いが回ると酒宴に参加している部下に、執拗に酒を注いで回り、酔い潰れて寝てしまう部下がいると、これに水を掛けてまで起こし吐くまで飲ませたと言います。
西暦、221年の事、魏の曹丕が後漢を滅ぼして、魏の文帝として即位すると孫権は、形式上その配下に入り、呉王に任命されます。
その呉王の就任祝いの酒宴でも、孫権は飲みが過ぎ、また部下に吐くまで酒を飲ますという悪癖が始まりました。その事を嫌がった、虞翻は、したたかに酩酊した演技をし孫権の悪癖をやり過ごしていました。
孫権が、虞翻の前を通過すると、彼は平生に戻り何食わぬ顔をして座ったので孫権は、激しく激怒します。そして「貴様!酔ったフリをして余の杯を避けるのか!」と剣を抜き放って虞翻を斬ろうとしました。
そこを劉基という人物が必死になって孫権を取りなします。孫権は酔いが醒めてから、この事を思い出し、顔色が青くなったと言います。
「もし、劉基が取りなさなかったら、たかだか酒宴のトラブルで部下を斬っていた所だ、恐ろしい、、これは反省しないといかん」
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孫権の殺害命令は無効になる?
以降、孫権は、自分が三杯以上の酒を飲んで、出した殺害命令は、無効だから実行しないようにと命令を出しています。ただ、この虞翻、人づきあいが下手で毒舌家であったようで、人間関係のトラブルを度々起こしていた問題児ではあったようです。
以前、張昭と孫権が、神仙(最高位の不老不死の仙人)は実在するのか?
と議論をしていた時に、虞翻はこれを小耳にはさんで嘲笑い、
「おいおい死人同士が、神仙がいるかどうか議論しているぞ、そんなモノいるわけがないのに、、」と毒舌を吐きました。
これを聞いた孫権は、以前から毒舌で周囲から評判が悪い虞翻にたまりかねて怒り彼を左遷しています。とまあ、このように孫権は、思慮深い部分と気性が激しい部分が同居している多面的な人物でした。
孫権の失態
若い頃は自制心と内省が勝った孫権ですが、晩年は呉の国力が充実し、魏も蜀も国内事情から、呉にとって脅威にならなくなった事で慢心してしまいます。
そして、内省と自制心が薄くなり、好き勝手な振舞いが多くなり呉の国力は次第に衰退していく運命を辿るのです。
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