通常、列伝は賞賛されるに値する人物か、兎も角も歴史に名を残した人物に後世の歴史家によって与えられるものですが、三国志の登場人物の一握りしか、その光栄には浴していません。
そこで、はじめての三国志では、歴史の中に消えた地味な武将達を掘り起こしちょっとだけ、スポットライトを当ててあげたいなと思います。
その栄えある第一回目は、三国志の群雄の中では、秒速で皇帝を名乗り、仲王朝を興してしまった残念な人物の代表、袁術公路(えんじゅつ・こうろ)のトホホな家臣達の列伝です。
帝王の血を受け継いだ地味な息子、袁耀(えんよう)
袁耀は言わずと知れた自称皇帝、袁術の息子に当る人物です。まさに帝王の血を受け継いだ彼ですが、西暦199年に袁術が病死すると一族は没落、袁耀は、一族の袁胤(えんいん)に守られ僅かな一族と共に、袁術のかつての配下、劉勲を頼って皖城(かんじょう)に逃れていきます。
しかし、劉勲は、当時勢力を伸ばしてきた孫策(そんさく)の前に敗れて敗走、袁耀は孫策の捕虜になってしまいます。かつて、袁術の客将だった孫策に今度は、袁術の息子の袁耀が捕らわれるこれぞ下剋上という感じですが、幸いにして袁耀の妹が、孫権の後宮に入り袁耀も郎中に取り立てられた事までは分かっています。自称皇帝袁術の息子は、こうして歴史の影にひっそりと消えてゆきました。
数少ない、まともな部下 閻象(えんしょう)
閻象は、袁術の配下としては、かなりまともな部類に入る人物です。西暦195年、献帝が李傕・郭汜が支配する長安を脱出して放浪しているという情報が入るや、袁術は、部下達に宣言します。
「これは、すでに漢の徳が衰えたという意味じゃね?
もう、名門のわしが皇帝を名乗っても大丈夫だと思わんか?」
袁術の恐ろしさに、家臣が皆下を向いていると、一人閻象が進み出て言いました。
「かつて、周の文王は天下の3分の2を支配しながら、なお殷の紂王の臣でした、さらに献帝は御存命であられるのに、どうして、新たに皇帝を名乗れましょう」
その堂々としたモノ言いに、袁術の家臣は心の中で拍手喝さい袁術は、みるみる不機嫌になりましたが、、正論を前に、反撃のしようもなく・・
「じゃあ、、もう少しだけ、待ってみようかな」とコメントします。
閻象エライ、イイ仕事をしたと思うのですが、その後、閻象は、歴史書に出てこなくなります。やっぱり、袁術の機嫌を損ねた事で処分されたんでしょうか・・