三国志の群雄の中では秒速で後漢王朝を見限り、自ら皇帝に即位して、仲王朝を開き、これまた秒速で滅んでいったトホホキャラ袁術(えんじゅつ)。そんな袁術にも、やっぱりというか、当たり前に部下というものがいます。
しかし、袁術でさえ、この有様では部下達の人生も、歴史家にソッポを向かれてしまう始末、それでは可哀想なので、はじさんでは、袁術のトホホ武将列伝を書いて、それにささやかな光を当てて見ようと思います。
「だっ!だからって、袁術が好きとか、そンなんじゃないンだからネ!!」
この記事の目次
袁術から身ぐるみ剥いだ陳蘭(ちんらん)雷薄(らいはく)
陳蘭と雷薄は同僚で袁術の部曲だったようです。部曲とは、私兵や民兵の事で、義勇兵を興した劉備(りゅうび)達と同じです。恐らく有力な豪族の味方に乏しかった袁術に金で雇われたのでしょう。しかし、袁術が皇帝を名乗ってから暴力政治を敷くと、民兵出身の二人は、袁術に愛想を尽かしはじめます。
愛想を尽かした二人だけど袁術は何をしたの?
何しろ、皇帝になった袁術が最初にやったのは、恩赦でもなければ、減税でもなく、後宮に入れる美女を集める為の美女狩りでした。さらに、楊州の女は、田舎臭くていかんと感じた袁術は、わざわざ、美女狩りの軍団を、洛陽周辺まで派遣しています。
もちろん、それやこれやの費用は全て、楊州の民からの税金です。袁術の宮殿では、官女達が贅沢な刺繍の施された絹の衣装を着て、何カ月も大宴会が開かれ、食べ物は腐って捨てる程に余りましたが、一方で民衆は、大飢饉と疫病で食べるものもさえなく、市場では人肉が売られ、それさえ買えず道端に死んでしまう人が大勢出ました。
流石の二人も袁術に対して呆れる
「こんな馬鹿に従っていたら、どんな禍いが降りかかるか分からん、逃亡して、山賊になった方が得だ」どちらがそう言い出したか、分かりませんが、陳蘭と雷薄は、しめし合わせて、袁術の元を脱走し灊山(せんざん)という場所に立て籠り独自の勢力になっていきました。
袁術は陳蘭(ちんらん)雷薄(らいはく)の二人に頼るが
二人の見立ては、正しく、その後、間もなく袁術は没落して、曹操軍の追撃に怯えながら、一族を連れて、灊山(せんざん)にまで逃げのびてきました。そして、陳蘭と雷薄に、昔のよしみで匿ってくれと使者を送ったのです。
「ふざけるな、お前なんぞ、入れてたまるか!!」
陳蘭と雷薄は、即答で拒否、袁術は止むなく、青州の袁紹を頼り、そこに向かう途中で病死しています。
また、三国志演義では、陳蘭と雷薄は、逃亡している袁術の一団に襲いかかって、金品と物資を奪い、飢えに苦しんだ袁術は、料理人にさえ見捨てられ、孤独な最期を迎える事になっています。素晴らしい、恩の仇返し自業自得とはいえ、流石は袁術の部下です。
陳蘭(ちんらん)雷薄(らいはく)はその後どうなった?
その後、陳蘭と雷薄は、盧江で山賊として暴れ回りますが、曹操(そうそう)軍に降伏して、その配下になります。ところが、根っからの山賊気質が抜けない陳蘭は、西暦209年に赤壁の混乱に乗じて独立して灊山(せんざん)に立て籠ります。※雷薄は、その頃、どうしていたかは不明。
そして、呉の孫権とも救援要請を取りつけ、呉将、韓当が陳蘭の救援に向かいますが、その前に、張郃(ちょうこう)張遼(ちょうりょう)楽進(がくしん)・臧覇(ぞうは)という曹操軍オールスターの攻撃を受けて敗北、陳蘭は張遼に斬られました。地味ながら、最期は曹操軍の大物、張遼に斬られた陳蘭は、まあ、袁術軍では、派手な最期を迎えた方と言えるでしょう。