三国時代よりはるか以前、春秋戦国時代にはさまざまな思想の潮流が生まれ、
多くの思想家たちが活躍しました。
彼らを諸子百家(しょしひゃっか)と呼びます。
諸子百家の中でも特に中心的な思想となったのは孔子(こうし)を始祖とする儒家の思想でした。
やがてそれは儒教という宗教として長く中国の中心的な思想となるのですが、
後世の王朝に影響を与えるもうひとつの思想潮流を作った者たちがいました。
それが法家です。
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この記事の目次
儒家が唱えた徳治主義って何?
儒教は、徳の高い統治者が人民の上に立ち、
その徳を持ってして人民を支配するべきであるという徳治主義を唱えました。
春秋戦国時代よりも更に以前、
紀元前17世紀から紀元前8世紀にかけて続いた殷から周の時代には血縁を重視し、
これによって国を支配する宗族制度がとられていました。
春秋時代以降、この宗族制度が解体していく中、
それを復興しようとして興されたのが儒教であったと言えます。
しかし、徳治主義による支配体制は長きにわたる
春秋戦国時代の終結にはつながりませんでした。
そうした中、春秋戦国の後期、戦国時代に入って台頭してきたのが法家でした。
彼らは血縁や人徳による支配という徳治主義に対し、
法をもって人民を統治すべきとする法治主義を唱えました。
法家が唱えた法治主義って何?
徳治主義とは、人民を支配する支配者の徳が重視される制度でした。
つまり、人民への信賞が支配者自身による恣意的な判断で、
その基準がその時々によって変わってしまう制度であるとも言えます。
これに対し、法治主義は厳格な法律を定め、これによって人民を統治することを理念としました。
法治主義には支配者個人の恣意性に頼るのではなく、
客観的な基準(法)に従い、合理的に国家を運営できるという利点があります。
特に、この法治主義を制度として取り入れたのが、
人気コミック『キングダム』の舞台ともなった国、秦でした。
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法家・衛鞅(えい おう)による秦の国政改革
戦国時代中期、秦の支配者であった孝公(こうこう)は、衰退していた秦の勢力を復興し、
奪われた国土を取り戻すべく、『奇計の士を求む』として、広く人材を求めました。
この孝公の布告を聞いて彼のもとに参じたのが衛鞅(えいおう)でした。
衛鞅は法治主義に基づいた中央集権的な支配制度を確立し、
秦が戦国七雄と呼ばれる大国になることに大きく貢献します。
後に衛鞅は商鞅(しょうおう)と呼ばれるようになります。
秦の始皇帝・政が法家を重視した理由
後に全土統一を成し遂げ、秦の始皇帝になる秦王の政は、
性悪説に基づいた厳格な法治主義を説いた韓非子の書物を呼んで感じ入り、
同じく法家の思想家であった李斯を登用し、秦帝国を成立させました。
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法律が厳しすぎて起こった珍事の数々
合理的な法治主義に基づく支配制度により、全土統一を成し遂げるに至った秦でしたが、
時にはその法の厳しさが、思わぬ事態を招くこともありました。
秦の天下統一の礎を作った商鞅の呆気無い最期
反対派の讒言で濡れ衣を着せられた商鞅(しょうおう)は
都から落ち延びて亡命しようとします。
その道中、夜になったので宿をとろうとしますが、
宿の亭主に『法律によって旅券を持っていない方はお泊めできません』と断られてしまいます。
結局、商鞅はそのまま逃亡を続けた挙句、囚われて殺害されてしまいました。
使者に襲われる秦王の政を秦軍は助けれない、その理由とは?
秦王の政に謁見した他国の使者が、隠し持ってた短刀で政を暗殺しようとします。
政は刀を持っていましたが慌てていたのでなかなか抜くことができません。
使者に追い回される政でしたが、
『殿中に武器を持って入った者は死罪』という法律があったため、
周囲の者はこれを止めることができませんでした。
結局、政自身が自らの刀で使者を斬り殺すしかありませんでした。
秦の厳しい法律によって漢の創設者・劉邦と楚の項羽が誕生する
辺境の警備のために集められた
農民兵900人は任地に向かう途中天候の悪化で足止めを食い、
予定期日までに任地に到着することが絶望的になりました。
しかし、法律ではいかなる理由があっても期日通り到着できなければ斬首という決まりです。
農民兵を率いていた陳勝と呉広は、
このままでは自分たちが殺されると考え、叛乱を決意しました。
二人の起こした叛乱はやがて拡大、
ついには漢の劉邦と楚の項羽の台頭を許し、秦王朝の滅亡へとつながります。
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後世に影響を残した法治主義
漢王朝の時代に入ると、儒教が国の中心的思想とされていきますが、
法治主義的な政治思想は表立ってでこそないものの、
三国時代の政治にも大きな影響を与えました。
曹操も諸葛孔明も法治主義者
曹操(そうそう)はその政治に法治主義的な考え方を取り入れていたことで知られています。
また、諸葛孔明は劉備の子であり二代目の蜀の皇帝である劉禅に、
法家の代表的な書物である『韓非子』を献上し、学ぶことを促しました。
法による統治という合理的な法家の思想は、
後の時代でも有用なものとして受け入れられて行ったのです。
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