于禁(うきん)は、楽進(がくしん)や張遼(ちょうりょう)、李典(りてん)に並ぶ、魏の名将です。西暦190年、于禁は、鮑信(ほうしん)が反董卓の軍を挙げた時に、その配下に加わりました。しかし、西暦192年、群雄、鮑信は、兗州牧となった曹操(そうそう)と共に、青州黄巾賊の残党掃討の下見に出た途中、黄巾賊の大部隊に襲われてしまいます。
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曹操との出会い
鮑信は、黄巾賊の主力を引きつけて曹操を逃がし自分は戦死しました。これで、主を失った于禁ですが、これからどうしようと思案している時この鮑信の死を誰よりも悲しむ、赤い鎧を着た派手な小男を目撃します。小男は、死体さえ見つからない鮑信の為に、鮑信をかたどった木像をつくりこれを埋めて、丁重に埋葬していました。
于禁:「ほお、、うちの大将の為に、ここまでしてくれるか・・」
そう思ったかどうかは知りませんが、こうして于禁は導かれるように、この派手な小男の軍に入り直します。その小男こそ、鮑信と固い友情で結ばれた曹操でした。
王朗将軍の下に配属された于禁
于禁は、王朗(おうろう)という将軍の下に配置されて兵卒として一から働き始めますが王朗は、于禁の非凡な才能を直ぐに見抜きました。
王朗:「この男を兵卒で使うのは惜しゅう御座います、、やがては、大将軍にまでなる人材で御座いますぞ」
王朗は、曹操に于禁を推薦します、人材を求めていた曹操は、于禁と面会して、その人物を見抜き、これを軍司馬に任命して、徐州攻略戦に参加させます、これが曹操軍における于禁の初陣でした。
于禁は曹操の期待に答えた戦果をあげる
于禁は、期待にたがわず、防備の固い徐州の広威を陥落させます。さらに、曹操が出陣した隙をついて、呂布(りょふ)が兗州に入った時にも、呂布の拠点、濮陽(ぼくよう)を攻撃して、呂布の別陣を二つ破った他に、別働隊を率いて須昌(すしょう)において将軍の高雅(こうが)を撃破します。加えて、寿張(じゅちょう)・定陶(ていとう)・離孤(りこ)の征討にまで参加し、張超(ちょうちょう)が立てこもる雍丘(ようきゅう)を陥落させるなど次々と功績を立てました。
袁術軍の雑魚将軍をバサバサ切る于禁
次に、陳で王族の劉寵(りゅうちょう)を殺した自称皇帝袁術の討伐にも従軍、「ザコ大将軍」として知られる袁術配下の橋蕤(きょうずい)以下、4名の将軍を斬るという大戦果を挙げます。
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