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この記事の目次
鄒氏を巡る争いでも于禁は張繍軍と戦う
宛(えん)で張繍(ちょうしゅう)を降した曹操が美女、鄒(すう)氏を巡るトラブルで張繍に背かれた時も、ただ、一人于禁だけが、数百の手勢を纏めて、曹操を援護し、張繍軍と戦ったので、曹操軍は脱落者を出しても、軍を崩壊させる事なく曹操は命からがら本拠地まで逃げ帰りました。
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官渡の戦いでは鉄壁を守りぬく
そればかりでなく、于禁は、下邳では呂布を捕虜にし、官渡の戦いでは、袁紹(えんしょう)軍の猛攻を受けても、一歩も引かないで耐え抜くなど、曹操軍随一の名将として、攻守両面で大活躍します。数々の手柄から、益寿亭侯、偏(へん)将軍に任命された、于禁は、張遼、楽進、張郃(ちょうこう)、徐晃(じょこう)と並んで名将と謳われました。
于禁はどんな人だったの?
于禁の人柄は、剛毅で威厳に満ちていて、金銭に淡白だったようです。戦利品があっても、懐に仕舞いこまず、部下に分け与えたので、部下達は、于禁によく服しました。ところが一方で、法を重視しすぎて、温情が薄く、厳し過ぎる点があり、兵は、于禁を畏れても懐かなかったと言います。于禁は左将軍になり、仮節鉞(かせつえつ)を与えられます。これは、軍律に拘束されず独自に軍を動かしてよいという印であり、曹操に于禁が、どれほど信頼されているかを示していました。
于禁の立場が暗転する事件が起こる
しかし、西暦219年、関羽(かんう)が曹仁(そうじん)の守る荊州襄陽(じょうよう)を包囲すると、于禁の立場は暗転してしまいます。
于禁と龐徳は軍神・関羽と対峙する
曹仁救援の為に、七軍を率いて襄陽に向かった于禁と龐徳(ほうとく)ですが、折りからの長雨で漢水が氾濫、船を持っていなかった于禁の軍はたちまちに水に呑みこまれて戦える状態ではなくなります。一方の関羽軍は、漢水を渡るつもりで船を用意していて、勝負はあっという間についてしまいました。
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