諸子百家の思想のひとつ、戦争における戦略と戦術を説いた兵家の思想。
その中でも代表的な七つの兵法書があります。
これを『武経七書(ぶけいしちしょ)』と呼びます。
今回はこの『武経七書』を紹介していきましょう。
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孫子(そんし)
武経七書を代表する書物であり、現代でも読み継がれる古典中の古典です。
『孫子』の作者についてはかつて、春秋時代に呉に仕えた孫武(そんぶ)と、孫武の子孫とされ、
戦国時代の斉に仕えた孫臏、その二人のいずれかとされていましたが、
1972年に孫臏の著作(孫臏兵法)が別個のものとして発見されたことから、
現在では孫武の著作であることがほぼ確定的とされています。
戦争を国家の非常事態と捉え、軽々に兵を動かしてはいけないと
戒める非好戦的な思想と大局的な視点から戦争を論じる戦略的視点、
妖術や占術によらない、現実的、客観的な分析を行っており、
その視点は現在でも通じるものとして世界的に大きく評価されています。
現代読まれている『孫子』は、
三国時代に魏の曹操が整理し註釈をつけた『魏武注孫子』(ぎぶちゅうそんし)であるとされています。
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呉子(ごし)
『呉子』は戦国時代に成立した兵法書とされています。
戦国時代に活躍した軍人である呉起(ごき)の著作とされていますが、
これは形の上のことで、実際の著者については謎です。
歴史書には48篇からなる書物という記述が残されていますが、
現存するのは6篇だけです。
呉起は孫武や孫臏と並び称される兵法家であると言われ、
兵法のことを「孫呉の兵法」と呼ぶこともあります。
しかし、現代においても評価される孫子に比べて
『呉子』の影響力は現代においてはほとんど残っていません。
これは『孫子』が主に戦略的な観点から書かれていることで、
現代にも通用する普遍性はあるのに対し、
『呉子』は春秋戦国時代における戦術を論じている部分が多く、
その普遍性において劣るとされるためです。
六韜(りくとう)
作者不明。
形の上では春秋戦国よりも前の時代、古代中国の王朝であった周に仕え、
後に斉の始祖となった呂尚(ろしょう、太公望とも)が
周の文王と武王に説いた兵法とされていますが、
実際は戦国時代頃に成立したものと考えられています。
『六韜』の“韜”という字は、武器を入れて保管する袋を意味し、
本編は「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」の全6篇で構成されています。
(六つの韜だから『六韜』)
秘伝が書かれた極意書などのことを“虎の巻”と呼ぶことがありますが、
それはこの『六韜』の一篇「虎韜」から来ています。
三略(さんりゃく)
こちらも太公望呂尚が作者とされる兵法書ですが、
太公望の時代には成立していないはずの騎馬戦についての表記や、
まだその時代には使われていない“将軍”という言葉が使われているなど、時代考証的には問題があり、
後世の人間が太公望の名を借りて書いた偽書であるという説が一般的です。
同じ太公望の作とされることから『六韜』と並び称されることが多いです。
「上略」「中略」「下略」の3篇からなることから「三略」と呼ばれています。
日本語の成句“柔よく剛を制する”の出典元としても知られます。
尉繚子(うつりょうし)
古来から『孫子』『呉子』と並び称される兵法書として評価されていましたが、
一方では後世の偽作であるとする説が強く、
いつの時代に成立したかについては定説がありません。
1972年に前漢時代の墳墓から写本が発見されており、
戦国時代から秦の時代にかけての作という見方が現在では有力視されているようです。
そのタイトルから『尉繚子』は尉繚という人物の著作、
あるいはその弟子がまとめたものと推定されますが、
尉繚という人物がいつの時代の人間であったかも諸説あって定まっていません。
『孟子』や『韓非子』の影響を受けていることが特徴とされています。
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李衛公問対(りえいこうもんたい)
三国時代以降、唐の時代に成立したとされる兵法書。
『問対』とは問答のこと。
唐の第二代皇帝太宗と、それに仕えた李靖(りせい、李衛公)が
歴代の著名な兵法家について討論するという形で書かれていることからこのタイトルで呼ばれます。
討論の対象とされている兵法家には曹操や諸葛孔明なども含まれます。
また、李靖の説いた「六花の陣」という陣形については、
諸葛孔明の「八陣の法」を元にしているとされるなど、三国志との関連性もある書物です。
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司馬法(しばほう)
春秋時代の斉の国に仕えた将軍、司馬穰苴の著作とされる兵法書です。
司馬穰苴は本名を田穰苴といいます。
もともと「司馬」とは軍事を司る役職の名称でしたが、
後の時代に姓名とされるようになります。(司馬遷や司馬懿など)
本来は155篇からなる大著であったとされていますが、
現代にはそのうちの5篇のみが使わっています。
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