地味なので、あまり知られてはいませんが、沖縄にも関帝廟があります。独立したものではなく、孔子廟に付属しているのではありますが・・(泣)沖縄は琉球時代から中国とは交流があり、その中で関帝信仰が伝播していき何と、沖縄県、名護市の屋部(やぶ)の民話には関羽(かんう)が登場します。
この記事の目次
カンテイオーとワーシャーオ―
昔々、唐の国に関帝王(カンテイオー)という領民思いの立派な武将がいました。
関帝王は、一日に千里を走る馬(赤兎馬の事)に乗り、毎日領内で悪い事をする者はいないかと目を光らせていました。この領地には、ワーシャーオーと名乗る力自慢もいました。ワーシャーとは沖縄の言葉で養豚業を意味します。ワーシャーオーは、その日の昼ご飯の為に、豚肉を大釜で煮て、重さ300斤(180キロ)という石の蓋で重しをしていました。
カンテイオー、石の蓋を青龍堰月刀でひっくり返す
たまたま、そこを通りかかる関帝王、道端でいいニオイがするので見まわすと、豚肉が釜でグツグツ煮られています。
「ちょうどいい、腹が減っていた所だ、頂くとしよう」
こうして関帝王は勝手に青龍堰月刀を石蓋の間に差し込み、重さ180キロもある蓋をひっくり返して、中にある豚肉を刀に突き刺して、自分で半分食べました。
「美味い、美味い、よしお前も食べろ」
関帝王は、残りの半分を赤兎馬に与え、赤兎はこれを美味しそうに食べてしまいます。ショック!赤兎馬は草食獣なのに肉食系だった!!
関連記事:衝撃の事実!赤兎馬の子孫が判明!?
関連記事:【歴代名馬史上最強戦】赤兎馬と騅ではどっちが凄い?
ワーシャーオーは、関帝王の家来になる
その一部始終を見ていたワーシャーオー、ドロボー!と怒るどころか関帝王の怪力に恐れ入り「家来にして下さい」と頼みます。
関帝王は、「家来にしてもいいが、ワシは領地を馬で回っておる、お前は馬を持っているのか?」と聴きます。ワーシャーオーは「馬はありませんが、ワシの足には三本の剛毛がありこれをバネのようにして走る事が出来ます」と言いました。
元祖ジャンピングシューズ ワーシャーオーの足の毛
関帝王は、それならばと、ワーシャーオーを家来にしますが、こいつが速いのなんの・・足の裏の三本の毛をバネにして飛ぶように走り赤兎馬でも全く追いつけません。ドクター中松のジャンピングシューズのような走りぶりです。
「こら!家来が主人より先を走るやつがあるか!もっとゆっくり走れ」関帝王は叱りますが、暫くするとワーシャーオーはまた、赤兎馬を追い越す始末でした。
腹が立った関帝王は、夜、ワーシャーオーが寝静まった頃を見計らい足裏の毛を一本引き抜きました。すると翌日からワーシャーオーの足は少し遅くなり、赤兎馬の背後を走るようになったという事です。
油断も隙もないワーシャーオー、カンテイオーを暗殺?
或る時の事、ワーシャーオーは、関帝王に隙がある事に気が付き、背後から槍で斬りかかろうとします。関帝王は殺気を感じて、青龍堰月刀で振り払いました。
「あああ!手が滑りました、すみません、以後気をつけまーす」
ワーシャーオーは事故だと主張して謝りますが、関帝王は信用しません。そこで一計を案じた関帝王は、朝は西の村々を見てまわり、昼から夕は東の村を見てまわるようになります。こうすれば、太陽を背にしてワーシャーオーの影を見る事が出来、オカシな動きがあればすぐに分かるからです。
こうして、関帝王はワーシャーオーを手下に、末長く領地を守り、領民から名君として称えられたそうです。時空を越えた関羽の大活躍、これにておしまい・・
三国志ライターkawausoの独り言
琉球の人が関羽を関帝として崇拝するようになったのは、1691年頃に琉球にきた中国人の影響と考えられています。
彼は、関羽、関平(かんぺい)、周倉(しゅうそう)の描かれた掛け軸を持っていて、家内安全、商売繁盛の神であると言ったようです。やがて琉球では、関羽の掛け軸を床の間に飾る事が流行します。需要が増えたので琉球人絵師も関羽を描くようになり国産の安価な掛け軸が増えて、琉球全土に普及していきました。
戦争中は、中国由来の関羽の掛け軸を持っているとスパイだと疑われるのではないかと、掛け軸を仕舞い込む家庭が増えます。しかし、掛け軸を捨てるような事はなく戦争が終わるとまた、関羽は床の間を飾るようになります。現在は、そのような習慣は廃れましたが関羽と関平、周倉を描いた古い掛け軸が十数点現存しているようです。
今日も三国志の話題をご馳走様でした。