西暦234年、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は漢の天下を回復させるという悲願も空しく五丈原に没しました。
孔明が亡きあと、皇帝、劉禅(りゅうぜん)は次第に馬鹿殿の本性を見せはじめますが、そこに待ったを掛けた人物がいました、それが、蜀の黄門様、董允(とういん)です。
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出師の表で名前が挙げられた、清廉潔白な人物
董允(?~246年)は字を休昭(きゅうしょう)といいます。西暦221年、劉備(りゅうび)が皇帝に即位すると、息子の劉禅が後継者に指定され、董允はその側近として劉備に抜擢され、太子舎人(たいししゃじん)、太子洗馬(たいしせんば)に昇進します。
董允の有能さは、孔明が北伐の折りに劉禅に対して送った出師の表に、費禕(ひい)、郭攸之(かくゆうし)と並んで名が上がっている事でも分かります。
同僚が北伐に引き抜かれ、ガミガミ担当になった董允
西暦223年、劉備(りゅうび)が白帝城で没して劉禅が即位すると董允は黄門侍郎(こうもんじろう)に抜擢されます。この黄門侍郎は、日本では江戸時代に徳川光圀が任じられた中納言に相当する役職で故に光圀(みつくに)はテレビドラマでは水戸黄門と呼ばれるようになります。さて、孔明から名前を挙げられた3名ですが郭攸之は性格が優し過ぎて諫言には向かず、費禕は孔明の北伐に随行していました。
そこで、もっぱら劉禅を厳しく指導して諫言するのは董允の役割になります。まるで水戸黄門のように董允は、坊っちゃん育ちで誘惑に弱い劉禅を厳しく躾ける天下のご意見番になるのです。
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董允黄門の喝!「これ以上、妃を増やすんじゃない!」
西暦234年に孔明が死去すると劉禅は、段々と馬鹿殿の本性を露わすようになります。劉禅は、自分の後宮に美女をいっぱいに詰め込みたいと考えて、董允に相談しました。すると、董允は目を光らせて、次のように言いました。
「古来、天子の後宮に妃は十二名でした、それから考えれば、帝の後宮には充分な人数が揃い、特に不足してはおりません」
蜀は益州一国であり、経済も楽ではないのに、お金がかかる後宮を大きくするなという董允の厳しい叱責でした。劉禅は気の強い人が苦手な人物で、この時、ピシッと董允に言われた事で、ますます委縮してしまい、董允に遠慮するようになります。
董允黄門の喝! 黄皓(こうこう)のような俗物は出世させぬ!
劉禅は、年齢を経ると宦官出身でゴマすりが上手い黄皓を側に置くようになります。黄皓は、劉禅におべっかを使い、自分が出世できるようにお願いしますが、これに毎回、STOPを掛けていたのが侍中(じちゅう)に昇進していた董允でした。
「宦官如きにそのような高い位がどうして必要ですか?黄皓如きは黄門丞(こうもんじょう)で充分で御座います!」
劉禅が何度、黄皓を出世させようとしても、董允が毎回握りつぶすので董允が生きている間、黄皓は、のさばる事が出来ませんでした。
格下の相手にも配慮を忘れなかった董允
董允は、出世しても公私混同を決してしない人物でした。ある日、友達の費禕や胡済(こさい)と宴会の約束があり馬車に乗ろうとすると年少で官位が低い、董恢(とうかい)が表敬訪問に来た事があります。董恢が恐縮して「日時を改めて参ります」と立ち去ろうとすると董允は、董恢を呼びとめました。
「いや、君の訪問を優先するよ、私が向かおうとしていたのは
身内の宴会であり、ただの私事だ」
そうして、董允は使者を出して宴会をキャンセルしたそうです。
董允が死去して、宦官黄皓がのさばる
董允は西暦246年に死去、以後、劉禅を厳しく叱りつける人物は出現せず宦官の黄皓が台頭して、蜀の没落は決定的になっていきます。
蜀の人々は董允が劉禅を押さえこんで蜀を引きしめていた事を今更ながらに思いだし、董允を追慕しない人はいなかったそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
董允と言えば、費禕との比較の話が有名です。董允はボロの馬車に乗るのをためらったが費禕はためらわず平然としていたとか費禕は尚書令の激務をこなしながらも遊ぶ余裕もあったのに、董允が真似しようとすると数日で仕事が溜まってしまったなどです。
どちらかと言うと費禕を称える逸話が多いですが、董允が頑固に劉禅を押さえこんでいたからこそ、蜀の国のタガが緩まなかったという事を考えると、董允の功績は費禕に劣るものではないと思います。今日も三国志の話題をご馳走様でした。
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