黄忠(こうちゅう)と言えば、老いてますます元気な人の代名詞として知られ、弓の名手、若者と比較されると発奮して奮戦する頑固+勇敢な老武将として知られています。三国志演義では戦場で討ち死にするという武人の名誉を遂げた彼ですが、華々しい戦場での活躍とは逆に家族の縁には恵まれなかったようです。
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荊州の劉表(りゅうひょう)に仕え、後に曹操に仕えた黄忠の履歴
黄忠は字を漢升(かんしょう)といい、荊州南陽郡の出身だと言われています。生年は不詳ですが、蜀書、費詩(ひし)伝によると前将軍に任命された関羽(かんう)が、同じく黄忠が後将軍に任命されたと聞いて機嫌を悪くし、
「大丈夫が老兵(おいぼれ)と同列になどなれるものか!」
と言ったという事から、関羽よりはずっと年上だと考えられています。
中郎将として、荊州の劉表の配下であった韓玄(かんげん)に長年仕えたあと、劉表が没して荊州を併合した曹操(そうそう)により仮の裨(ひ)将軍に任命され、仕事はそのまま存続という形になります。しかし、赤壁の大敗で荊州での影響力を低下させた曹操の隙を突いて、劉備(りゅうび)が荊州南郡を制圧すると、黄忠はその配下になります。
この辺りは演義の記述とほぼ同じで、以後、定軍山で夏侯淵(かこうえん)を討ち取るという所まで同じです。
1人息子を失い、寂しい生活を送った黄忠
華々しい手柄を挙げて、新参ながら関羽と並んで後将軍にまでなった老将黄忠ですが、彼の私生活について三国志演義は何も伝えていません。普通に考えると頑固老人なのですから、家でも頑固ジジイで、息子や孫達に反発しながらもワイワイ楽しくやっていると思ってしまうのですが、本当の黄忠は、私生活ではとても寂しい生活を送っていました。
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黄忠の息子は、黄叙(こうじょ)
黄忠の息子は、黄叙(こうじょ)と言います、誰それ?という人が大半でしょう。それもその筈で、黄叙の名前は蜀書の黄忠伝以外には出てきません。しかも、黄叙について知られているのは、名前と黄忠よりも先に亡くなったという事だけ、さらに黄叙には子孫もいなかったので黄家は黄忠の死後に断絶してしまっているのです。
つまり、晩年の黄忠には、孫はおろか息子もなく、もしかすると、長生きだった黄忠の最晩年には、妻も先立ったのかも知れません。黄忠ほどの名将の家なら、劉備や同僚の武将が養子を入れてでも家を存続させそうですが、黄忠が断ってしまったのか、それは実現しませんでした。
奮戦した黄忠には家族に恵まれなかった寂しさがあった
どのような武将も、ある程度の年齢を経ると隠居して家督を譲るのが普通です。しかし、黄忠は当時の平均寿命では考えられぬ程の老齢でも前線に立つ事を望みその為に大きな手柄を立てる事が出来ました。
でも、その裏側には、独りぼっちの寂しい家庭にはいたくない。戦場で、多くの同僚や部下に囲まれて生命の燃焼感を味わっていたいという寂しさが隠れていたのではないでしょうか?
同僚の武将達が、成人して配下に加わる息子達を見て目を細めている時黄忠は、どのような顔をしていたのだろうと思うと、とてもいたたまれない気持ちになってしまいます。
三国志ライターkawausoの独り言
三国志演義では夷陵の戦いで戦死した事になっている黄忠ですが、史実では西暦220年に病死したという事になっています。
私はそこに三国志演義のライター達の愛を感じます。「家族に恵まれなかった黄忠が病気で独り寂しく死ぬなんて可哀想だ。もう少し、長生きさせてあげよう、華々しく戦死させてあげよう。どうせなら、張笣(ちょうほう)や関興(かんこう)のようなジュニア武将とも絡ませてあげようじゃないか」
こうして、黄忠は物語の中でその寿命を数年延ばして、寂しく病死するのではなく戦死して、仲間に見守られながら世を去ったという事にされたのでしょう。黄忠は季漢輔弼賛(きかんほひつさん)の9番目に評伝があり性格は義に厚い壮士であったと書かれています。本日も三国志の話題をご馳走様でした。
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