韓当(かんとう)は弓馬の術に優れ、数々の戦いに参加した勇将です。孫家三代を支え続けた重臣・韓当を今回はご紹介していきたいと思います。
下働きから身を起こす
韓当は幽州という中国の北部の出身です。北部の人間は、乗馬がうまい鳥桓(うがん)などの諸民族との国境の近くであるため、弓馬の術に長けている武将が多いです。韓当も弓馬の術がうまい事が孫堅(そんけん)の目にとまり、仕えることになります。
孫堅の元で才能を開花していく
最初は下働きとして仕えることになりますが、自ら率先して敵陣に突入し、陣を破るなどの武功を挙げ、賊の討伐などに尽力します。この功績が認められ、孫堅から別部司馬に任命されます。孫堅の死後、孫策に仕え、江東平定戦で活躍します。
劉勲討伐戦では援軍に来た黄祖を打ち破る実績を挙げています。また彼は、山越族討伐戦でもめざましい活躍を見せます。山越族は、韓当の猛攻に恐れ、彼が生きている間は反乱を起こさず、孫家に恭順を誓ったそうです。
孫権時代に呉の重鎮へ
孫策(そんさく)が非業の死に倒れたあと、まだ若かった孫権が孫家の当主になります。韓当は、孫家に代々仕えてきた程普(ていふ)や黄蓋(こうがい)らと共に孫権を支えるため武勇を奮います。
彼は、孫家の命運を分けた「赤壁の戦い」で、周瑜(しゅうゆ)や程普、黄蓋などの諸将と共に曹操軍を打ち払うため、出陣します。この戦いは、黄蓋が提案した火計を実行した事で、曹操軍に壊滅的なダメージを与えます。韓当と黄蓋は、孫堅の頃から共に仕える孫呉の重鎮です。
韓当と黄蓋の男の絆エピソード
赤壁の戦いの時に、二人の絆の強さをうかがわせるエピソードがあります。黄蓋が、自ら突撃船に乗って、捨て身の火計を行った際、曹操軍の流れ矢が彼に当たり、船から落下します。韓当が、近くを通りかかった際に、黄蓋の声が聞こえ、保護します。
韓当は、彼のみずぼらしい姿を見て涙を流し、彼の衣服を着替えさせたそうです。韓当は、赤壁の戦いの後、呂蒙と共に荊州攻略戦に参加し、南郡を攻略することに成功します。これらの功績が認められて将軍の位と永昌という土地の太守に任命されます。
赤壁の戦いの後は、夷陵の戦いでも活躍
韓当は赤壁の戦いの後、様々な戦いで活躍します。その内の一つは、夷陵の戦いです。蜀漢の皇帝・劉備が率いる軍勢が、呉の領地である夷陵に侵攻してきます。
韓当は、朱然や甘寧らと共に陸遜の指揮下に入り、出陣します。呉軍は開戦当初、蜀漢軍の猛攻に破れ続けます。
しかし陸遜が行った火計により、蜀漢軍に致命的な損害を与えます。この戦いで、白眉で有名な馬良(ばりょう)をはじめ多数の蜀漢の文官や将を打ち取ります。
韓当は、劉備を打ち取るため、前線基地・白帝城まで必死に追撃を行いますが、劉備を討ち取ることはできませんでした。彼は、夷陵で大勝利を収めた後、すぐに江陵に帰還し、南下してきた魏軍の攻撃を見事に防ぎます。これらの戦績が孫権に認められて昇進し、都督に任命されます。
三国志ライター黒田廉の独り言
韓当は、黄蓋や程普、祖茂(そも)と共に孫堅四天王として諸侯から恐れられていました。祖茂は、董卓討伐戦の時に討ち死にしてしまいますが、三人は一致団結して、孫家三代に仕えて、孫呉の基盤を磐石にするために尽力します。また彼が率いている兵士は、非常に強力でした。なぜこのように強い兵士を作り上げることに成功したのでしょう。
それは、非常に軍律が厳しく、一致団結感を軍全体に作りあげることで、非常に強力な軍を結成し、魏の侵略から国境を守り続けることに成功します。また彼は、呉の特殊部隊「敢死」と呼ばれる兵を率いて、呉の周辺に存在する異民族討伐にめざましい活躍をします。このように孫家を武勇の面で支えた優秀な将軍でありました。しかし韓当の息子は、ある戦いの時に孫家の法を破ってしまい、魏に亡命してしまいます。
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