曹丕(そうひ)ってどんな人?魏書には正当性を表す記述ばかり!?

2015年11月24日


 

曹丕 残忍

曹丕(そうひ)、字は子文は曹操(そうそう)が32歳の時の子どもです。彼は後年魏を興し皇帝となりますので、正史には生まれた際の瑞兆エピソードがてんこ盛り。まあこれは中国の史書でお約束ですので仕方がない。適度にツッコミを入れてスルーです。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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兄の死により後継者候補に

曹昂

 

彼には曹操の後継ぎと考えられていた、10歳くらい年上の長兄・曹昂(そうこう)がいました。曹丕は庶子として11歳から父に従い従軍しましたが、197年に曹昂が張繍の奇襲で戦死してしまいます。

 

曹操を見捨てない丁氏と卞氏

 

それが原因で曹操と正室・丁氏が離縁し、卞氏が正室となり、曹丕たち兄弟も嫡子として扱われるようになります。この頃曹丕は11~12歳。すでに文才、騎馬、騎射の才能(曹丕は弓が得意だったそうです)を見せ、文武両道の武将として成長していきます。

 

中々後継者に選ばれない

曹丕

 

曹丕が20歳前後の頃は、曹操陣営も人材募集の効果があり大人数の集団となっていきました。そんな中で否が応でも出てくる後継者問題。

 

曹丕と曹植

 

当時後継者と目されていたのは実質長子の曹丕、文才豊かで大らか(すぎる)な同母弟の曹植(そうしょく)、天賦の才能と人徳が伝わる庶子の曹沖(そうちゅう)でした。私達の感覚からすると、何となく曹丕がいちばん年上なんだし、文武両道なら決めちゃっていいんじゃない?と思いますよね。

 

曹丕

 

しかし曹操が曹丕を後継者と決めたのは、何と曹丕が30歳のとき。当時の平均寿命を考えたらいいおっさんです。

 

後継争いは曹丕と曹植の一騎打ち

曹丕 曹植

 

曹沖は13歳で早世してしまいますので、後継争いは曹丕と曹植の一騎打ちでした(ちなみにすぐ下の弟曹彰は早々と脱落…というか脱出) 。曹植がどんな人物かというと、文才豊かで大らかで飾らない…と一見良い人に見えますが、彼は大酒飲みでお酒の失敗の多い人だったようです。加えて頭は良い(はず)のにいつまでも素直で大らか…KY…いやいや、天才肌で危なげなところがあったようですね。

 

曹丕が神経質になったのは曹操さんのせい?

曹操 詩

 

曹丕にも神経質な面があったようで、正史にも「才能あるんだから、もうちょっと誠意・道義・徳心を充実させれば、手放しで良い皇帝って言えるんだけどね~」と評されていた…との記述があります。詩の作風が「繊細で優美」と評価されるところも、そうした面を窺わせますね。実際に彼が文帝になった後の、兄弟たちへのかな~り神経質な処遇を考えたら、この評価にも合点がいきます。ってかこんなんなっちゃったのって、20代全てで後継者レースをさせたのが原因なのでは…曹操さん…?

 

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栂みつは

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初めましてこんにちは。栂(つが)みつはと申します。10代の頃から三国志にハマり、小説や演義では飽き足らず正史を購入。列伝を読みふけってはニヨニヨする残念な青春を送っておりました。

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