曹丕(そうひ)、字は子文は曹操(そうそう)が32歳の時の子どもです。彼は後年魏を興し皇帝となりますので、正史には生まれた際の瑞兆エピソードがてんこ盛り。まあこれは中国の史書でお約束ですので仕方がない。適度にツッコミを入れてスルーです。
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兄の死により後継者候補に
彼には曹操の後継ぎと考えられていた、10歳くらい年上の長兄・曹昂(そうこう)がいました。曹丕は庶子として11歳から父に従い従軍しましたが、197年に曹昂が張繍の奇襲で戦死してしまいます。
それが原因で曹操と正室・丁氏が離縁し、卞氏が正室となり、曹丕たち兄弟も嫡子として扱われるようになります。この頃曹丕は11~12歳。すでに文才、騎馬、騎射の才能(曹丕は弓が得意だったそうです)を見せ、文武両道の武将として成長していきます。
中々後継者に選ばれない
曹丕が20歳前後の頃は、曹操陣営も人材募集の効果があり大人数の集団となっていきました。そんな中で否が応でも出てくる後継者問題。
当時後継者と目されていたのは実質長子の曹丕、文才豊かで大らか(すぎる)な同母弟の曹植(そうしょく)、天賦の才能と人徳が伝わる庶子の曹沖(そうちゅう)でした。私達の感覚からすると、何となく曹丕がいちばん年上なんだし、文武両道なら決めちゃっていいんじゃない?と思いますよね。
しかし曹操が曹丕を後継者と決めたのは、何と曹丕が30歳のとき。当時の平均寿命を考えたらいいおっさんです。
後継争いは曹丕と曹植の一騎打ち
曹沖は13歳で早世してしまいますので、後継争いは曹丕と曹植の一騎打ちでした(ちなみにすぐ下の弟曹彰は早々と脱落…というか脱出) 。曹植がどんな人物かというと、文才豊かで大らかで飾らない…と一見良い人に見えますが、彼は大酒飲みでお酒の失敗の多い人だったようです。加えて頭は良い(はず)のにいつまでも素直で大らか…KY…いやいや、天才肌で危なげなところがあったようですね。
曹丕が神経質になったのは曹操さんのせい?
曹丕にも神経質な面があったようで、正史にも「才能あるんだから、もうちょっと誠意・道義・徳心を充実させれば、手放しで良い皇帝って言えるんだけどね~」と評されていた…との記述があります。詩の作風が「繊細で優美」と評価されるところも、そうした面を窺わせますね。実際に彼が文帝になった後の、兄弟たちへのかな~り神経質な処遇を考えたら、この評価にも合点がいきます。ってかこんなんなっちゃったのって、20代全てで後継者レースをさせたのが原因なのでは…曹操さん…?
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