晋に仕え、歴史書を編纂した孫盛(そんせい)は、沮授(そじゅ)をこのように評価しています。「彼は前漢の張良や韓信にも劣らない才能をもっていたが、仕える君主を間違えたため、才能を発揮できなかった。」と評しています。袁紹(えんしょう)の謀臣として仕えるもことごとくその意見を取り上げてもらえなかった沮授を紹介していきたいと思います。
袁紹に仕えた若き謀臣
沮授は若い頃から策謀に富んだ青年でした。彼はその後冀州の韓馥に仕えます。しかし韓馥は袁紹の脅迫に屈し、冀州を明け渡します。彼は張郃(ちょうこう)や田豊(でんほう)らと共に新たな冀州の主である袁紹に仕える事になります。
袁紹へ初アドバイスを行う
沮授は袁紹に仕えると早速アドバイスを行います。彼は袁紹に「冀州と元の領地である渤海の兵を率いて、青州黄巾賊を滅ぼし、青州を平定します。次に黒山賊を討伐し幷州を手に入れます。最後に北に勢力を張っている公孫瓚(こうそんさん)と匈奴を打ち破り、幽州を領地とします。冀州・幷州・幽州・青州の兵力を南下させ、長安から皇帝を迎え、天下に号令すれば殿に敵対する勢力はいなくなるでしょう」と伝えます。袁紹は沮授のアドバイスを聞くと大いに喜び、彼を将軍に任命します。
皇帝を迎える絶好の機会をとらえた献策
皇帝は董承(とうしょう)らと共に洛陽からの脱出に成功します。沮授は皇帝が洛陽から脱出したと報告を受けると、すぐさま袁紹に「天下は各地の群雄が独立し、争いが絶えません。民衆を安心させる群雄がいません。現在皇帝は洛陽から脱出したようです。今こそ軍勢を率いて皇帝を鄴に迎えて、天下に号令をかける絶好のチャンスです」とアドバイスを行います。袁紹は沮授の意見を聞きますが、彼のアドバイスを採用しませんでした。この時袁紹が彼のアドバイスを聞いて皇帝を鄴に迎え入れていれば、三国志はなかったかもしれません。そう考えると沮授の意見は的を得た素晴らしい献策でありました。
息子達に州を任せるな
袁紹は公孫讃を滅ぼし、ついに河北を統一。彼はその後長男の袁譚に青州を与えます。沮授は袁紹に対して「殿。州を殿の息子達に分け与えるのは、後日必ず禍の元になります。おやめになった方がよろしいでしょう」と献策。袁紹は彼の反対意見も黙殺。長男・袁譚に青州。次男袁煕に幽州。三男袁尚は幼かったため、手元に残し、甥の高幹に幷州を与えます。この献策も彼の言う通りでした。袁紹が亡くなった後、袁譚と袁尚が後継者争いをすることになるのです。沮授の献策を受け入れていれば、かなり違った歴史になっていた事でしょう。
今は内政に力を注ぐべき
袁紹は曹操を滅ぼすため、大軍を率いて出陣を決意します。沮授は袁紹に反対意見を述べます。
「殿。今は曹操を討伐する時期ではありません。
今は農業や商業などに力を入れ、国力が増大した時に一気に攻め滅ぼせばよいのです。」と進言します。しかし審配や郭図(かくと)などの臣下が彼の意見に反対。袁紹は沮授と田豊(でんぽう)が述べた反対意見を却下し自らの計画を大勢の家臣が賛成した事で自信を持ち、曹操討伐に出陣を決定します。
彼の才能を見抜いた曹操
袁紹は沮授の意見をことごとく取り上げず自らの考えに従っていきます。その結果官渡の戦いで大敗北し、鄴に逃げ帰ります。沮授は逃げ遅れ曹操の捕虜となります。曹操は旧友であった沮授に「久しぶりではないか沮授。私に仕えて共に天下を目指してみないか。」と自らの臣下になるように誘います。沮授は「お誘いありがたいが、私の父も母も弟もすべて鄴に住んでいる。私があなたに仕えたら、殺されてしまうであろう。もし私に情けをかけてくれるなら、ここで殺してくれ」と曹操の誘いを断ります。曹操は彼の才能を惜しんでその後も説得を試みますが、彼の決意を翻すことはできませんでした。曹操は沮授の才能を惜しみ解放します。しかし鄴へ帰る途中賊に襲撃され、殺害されてしまいます。
三国志ライター黒田廉の独り言
沮授は孔明や周瑜と比較しても同等の謀臣であったと私は思います。彼の助言は的確な助言であり、袁紹が彼の助言を一つでも取り挙げていたら、三国志は成立しないで、袁紹が天下を統一していた可能性は大いにあったと思います。曹操も沮授の才能を認め「君と早くに出合っていれば、天下の平定は大いに早まったであろう」と評価しています。