【五胡十六国】ねぇ?三国志の後ってどうなるの?アフター三国志を紹介

2016年1月31日


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司馬懿

 

三国志に少し詳しい人なら、三国志は、司馬懿(しばい)の孫の司馬炎(しばえん)の天下統一で、終了し、晋という国が建国される事をご存じだと思います。

 

でも、その後・・となると説明できないのではないでしょうか?

そこで、はじさんでは、超カンタンに、三国志その後を解説しちゃいます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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五胡十六国(ごこ・じゅうろくこく)時代って何、それ美味いの?

司馬炎 はじめての三国志

 

司馬炎の天下統一は西暦280年ですが、それから30年もしない間に、八王の乱というものが起きて、晋は衰退します。

 

八王の乱は、簡単に言うと司馬一族の諸王が、次の皇帝を目指して内乱に明け暮れたという話です。この内乱には、曹操が人口増加政策で中原に引き入れた異民族が傭兵として大勢参加していました。そして、この事が大きな悲劇を生む事に繋がるのです。

 

匈奴の劉淵

 

西暦304年、晋の弱体化で司馬一族に従っていた匈奴の傭兵隊長の劉淵(りゅうえん)が山西の離石(りせき)で匈奴大単于(きょうど・だいぜんう)を名乗って独立します。この劉淵の国は、後に前趙(ぜんちょう)を名乗ります。

 

これを皮切りに、巴賨(はそう)族の李雄(りゆう)が四川で成都王を名乗って独立し、国号を成漢(せいかん)としました。

 

また甘粛では、晋の涼州刺史であった張軌(ちょうき)が自立しました。ここは独立せず晋に服属し前涼(ぜんりょう)国を名乗ります。こうして、最初に、前趙、成漢、前涼という3つの国が産まれました。張軌以外は、異民族の出身です。

 

曹操 五胡十六国

 

今更、言っても遅いですが、人口が少ないからと、簡単に異民族を中華の領地に入れてしまった曹操が一番悪いです。

 

好き放題された晋ですが、内乱で疲弊していて、討伐も出来ません。このようにして、五胡(5つの異民族)が次々と十六もの国を乱立させるという五胡十六国の時代が幕を開けるのです。

 

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時代をリードする前趙、晋を滅ぼす

 

この3国の中で、一番強かったのが、劉淵の起した前趙です。漢族、匈奴を問わず優秀な人材を登用して、瞬く間に山西一帯を制覇すると西暦306年に漢皇帝を名乗ります。

 

しかし、劉淵は、西暦308年に死亡、王位は一旦、息子の劉和(りゅうわ)が継ぎますが、人望がなく、劉淵の弟の劉聡(りゅうそう)が3代目の皇帝になります。そして、西暦311年、洛陽を陥落させ、晋の皇帝、懐帝(かいてい)を捕虜にして、ここに事実上、晋は滅亡します。

 

抵抗を続ける晋、長江を渡り、東晋を建国

 

洛陽は落ちましたが、司馬一族の残党は、長安で蜂起して慇帝(いんてい)を立てて劉聡に抵抗しました。しかし、劉聡の敵ではなく、西暦316年には滅亡、ここに司馬炎が起した晋は完全に消滅します。

 

しかし、遠征で長江を渡っていた、王族の司馬睿(しばえい)は、慇帝が殺された事を知ると、自ら建業で即位して晋の元帝になります。これは、東晋と呼ばれ、司馬炎が起した晋とは区別されます。

 

華北統一は間近に見えた、前趙、まさかの分裂

 

さあ、普通なら、ここで、長江を挟んで、前趙と東晋が睨みあうという南北朝になりそうですが、事は、そう簡単ではありません。実は異民族同士って、漢族以上に仲が悪い実力主義なんです。

 

西暦318年、この肝心な時に、前趙の劉聡が死んでしまうのです。多少のゴタゴタの後、皇位は、部族の中で一世代下の劉曜(りゅうよう)が継ぎます。

 

ですが、この頃、前趙の有力武将である石勒(せきろく)は遠征に出ていてこの人事に従わず河北で自立して、大単于趙王と名乗ります。

 

同じ趙王を名乗っているという事は、「俺が皇帝、劉曜は偽物だ」と言っているわけです。ここで、趙は、劉曜の前趙と、石勒の後趙に分裂します。ああ、ややこしい、せめて別の国号にしろよ、石勒・・

 

前趙VS後趙の抗争は

 

石勒は、鮮卑族と組んで勢力を伸ばし、河北、河南、山東を制覇して、洛陽を境に10年に渡り、睨みあいを続けます。しかし、劉曜は次第に皇帝の贅沢な生活に慣れていき、堕落しました。

 

西暦328年、劉曜は、後趙に占領された洛陽を奪還しようと親征軍を起しますが、洛陽を守る、石勒の甥の石虎(せきこ)に撃破され、殺されてしまいます。翌年、劉曜の子の劉煕(りゅうき)は父の仇を討つべく進軍しますが、これまた、石虎に大敗して殺されます、、こうして劉淵が興した前趙は、西暦329年に滅亡しました。

 

後趙が、華北を統一・・すると思いきや、、

 

前趙を滅ぼした、石勒は西暦330年に皇帝に即位します。やっと、華北統一が成るかと思いきや、またもや、またもや!石勒が333年には死去します。

 

もう少し、長生きしてくれよ~~~~~~(怒)

 

さあ、嫌なデジャブがしてきた人、大正解!!

 

後を継いだ石広(せきこう)が即位するも、前趙を滅ぼした功労者、石虎が!あの、ストーンタイガ―が不満を持ちました。こうして、石虎は、石広を殺して自ら、皇帝に即位します。
 
 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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