匈奴中郎将の役目を果たした臧旻(ぞうこう)を太原太守に任じたのが、
当時、三公の太尉を務めていた袁逢(えんほう)です。
臧旻は今回の主役、臧洪(ぞうこう)、字は子源の父親です。
袁逢は袁術(えんじゅつ)の父親になります。
臧旻は喜んで息子の臧洪を連れて袁逢に礼を云いに行ったといわれています。
臧洪は袁逢のお陰で孝廉に選出されて郎中という仕事につきます。
役所勤めの人たちの世話係です。
コネで公務員になれたんですね。羨ましい。
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袁術の屋敷に行くがニアミス
袁逢に直接お礼を云いにいことしたらちょうど亡くなったときでした。
袁術や袁紹の住む屋敷に弔問に行きますがあまりの人の多さに入れません。
友人の陳琳には会うことができましたが、袁術には残念ながら会えていないようです。
うーん、ニアミス。
他の期待の新人たちとともに県令にしたのはあの●●
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183年に臧洪は司徒府に呼ばれ、地方活性化のために選ばれた他の若手三人とともに県令となります。
ちなみに年収は郎中の倍です。
厳密には三百石が六百石の禄高となりました。
凄い出世ですね。
この時の司徒が袁隗(えんかい)です。
袁隗についても以前にお伝えしていますが、袁逢の弟、つまり袁術の叔父にあたります。
期待の新人は臧洪の他に、以前お伝えしたスター劉繇(りゅうよう)、あとは王朗と趙昱です。
皇族の領地である「国」の県令となります。
国を治めるのは太守や刺史とは呼ばず「国相」と呼びます。
臧洪は徐州瑯邪国即丘県の県令となります。当時の国相は陳遵、徐州刺史は陶謙(とうけん)です。
184年の黄巾の乱に対して、兵を集める仕事を嫌がり退職しちゃいます。
実は結局、期待の四人ともすぐに県令をやめちゃうんです。
高給取りの公務員なのにもったいない・・・。
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またも袁術とニアミス
故郷徐州広陵郡射陽県に帰ると、189年には広陵郡太守である張超から呼び出しがかかり功曹として働くことになります。
勝手に辞めてまた復職できるあたり、臧洪はやはり有能だったし、評判も良かったのでしょう。
190年には曹操(そうそう)の反董卓連合の回状が回ってきて、
張超(ちょうちょう)とともに兗州陳留郡の太守である張邈のところに兵一万を率いて向かいます。
張邈は張超の兄です。
このとき曹操に兵を五千ほど貸しています。
曹操が徐栄に敗れたのは、この兵が弱かったからなのか・・・。
臧洪は広陵郡の太守代行に友人の趙昱を推薦し、その通り意見が通りました。
この時、臧洪は陳留の酸棗の陣にいましたし、
袁術は荊州の魯陽に陣を張っていたので、同じ連合軍ですが、ニアミスしてます。
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