馬超(ばちょう)のパパとして知られる涼州の猛将・馬騰(ばとう)。彼は韓遂(かんすい)と義兄弟の契りを交わして、涼州の独立勢力として維持しておりました。しかし最後は漢の朝廷に出仕後、あっさりと亡くなってしまいますが、いったいどのような人物であったのでしょうか。
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漢の名将馬援の子孫
馬騰は蜀の勇将として名を馳せた馬超のパパです。彼の家は非常に貧乏でしたが、先祖は漢の光武帝(こうぶてい)劉秀の部下で、名将として知られる馬援(ばえん)の血を引いております。しかし家がめちゃくちゃ貧乏なため、彼は毎日木材を切り倒し、売っておりました。当時の彼の身長は190㎝と非常に大柄で、体つきもがっしりとしていたため、少し怖そうな人物のように思えますが、怖そうな顔つきではなく、周りの人に優しくておとなしい性格でした。
義勇軍に身を投じる
馬騰が木材を切って販売していた頃、涼州(りょうしゅう)は悪政が行われておりました。そのため涼州で暮らしていた羌族(きょうぞく)達が反乱を起こします。羌族の反乱勢力の勢いは凄まじく漢軍は至る所で敗北。馬騰は羌族の反乱が凄まじい頃、街の中で「武力に自慢のある者を募集している」との立札を見つけます。彼はさっそく役所に行って志願。馬騰を見た役人は彼を採用し、兵を与えて反乱軍鎮圧に赴かせます。馬騰は兵を率いて反乱軍討伐へ向かい、反乱軍討伐で大いに功績をあげます。
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反乱を起こした韓遂の元へ馳せ参じる
こうして反乱軍討伐で大いに功績をあげた馬騰ですが、涼州の反乱は止まりませんでした。涼州の豪族である韓遂は、反乱軍の首領達を殺害し、首領達が握っていた兵をすべて握って反乱を起こします。彼のもとに集まった兵士の数はなんと10万人以上。この人数で涼州を包囲し、涼州刺史を殺害します。馬騰は涼州刺史が殺害されると、以前から涼州の政治に不満を持っていたこともあり韓遂の元へ馳せ参じ、反乱軍に身を投じ、各地の城を攻略していきます。
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董卓に呼ばれて長安へ
董卓(とうたく)のやりたい放題の政治に激怒した各地の諸侯は、名門袁家の棟梁である袁紹(えんしょう)を盟主に据え、連合軍を組んで董卓討伐軍を編成。この軍は一か所から進軍することをせず、多方面から進軍を開始します。董卓は連合軍から身を躱す為、長安へ強硬遷都を行います。彼は長安へ到着すると、涼州で独立勢力していた韓遂や馬騰に、長安へ来るように要請します。馬騰と韓遂は董卓の要請を受けて長安へ向かいます。
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董卓が殺害される
馬騰と韓遂は軍勢を率いて長安へ向かいますが、途中で驚くべき報告を受けます。報告者は二人に「董卓が王允(おういん)達に暗殺されています。」と告げられます。二人は今後の方針をどうするか語り合いますが、いい答えが出てきませんでした。そんな中再び長安の状況を伝わってきます。その内容は「王允らが長安で漢の政治を取り仕切っていたが、
董卓軍の残党である李傕(りかく)と郭汜(かくし)らが長安を攻撃して陥落させ、王允らは李傕と郭汜軍らによって殺害されております。」と報告を受けます。この報告を受けた二人はとりあえず長安へ向けて移動を開始します。
李傕と郭汜から将軍の位をもらう
長安近辺に駐屯した二人は、長安の李傕と郭汜から将軍の位を与えられます。馬騰は征西将軍(せいせいしょうぐん)に任命されて、董卓が作った郿城へ駐屯するように命令を受けます。また盟友である韓遂は鎮西将軍(ちんせいしょうぐん)に任命され、長安からすごく離れた場所である金城へ行くようにと命令されます。
こうして二人はバラバラになってしまうのですが、二人の元へ長安から密使が届きます。
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