現在では神として崇められている関羽雲長。
劉備とは義兄弟の仲であり、蜀の建国に絶大な貢献をした人物です。
武力においては幾多の猛者たちをその青竜偃月刀で屠っています。
名声は他国まで鳴り響いていましたが、
自国ではやや味方に距離を置かれていたように見えます。
プライドがことのほか高い関羽
忠義の士として名高い関羽ですが、反面、プライドがとてつもなく高かったようです。
例えば蜀の五虎将として関羽の他、張飛(ちょうひ)、趙雲(ちょううん)、黄忠(こうちゅう)、
そして馬超(ばちょう)が選ばれた際には、新参の馬超と同列にされたことに腹をたてて、
馬超と一騎打ちをさせろと反抗しています。
黄忠に対しても、夏侯淵(かこうえん)を討ったという武功があるにも関わらず、
あんな老いぼれと同格かと憤慨しています。
この時は孔明のおべっかいによって事なきを得ていますが、
扱いを間違えると味方にも容赦のない性質だったことが垣間見れます。
敵の君主にも容赦なし
荊州を治めていた関羽は、隣国の呉国君主である孫権から互いの子息の縁組を持ちかけられます。
このとき関羽ははっきりと断っています。
劉備の配下の身分で勝手に敵国と縁組などありえない話です。
断るのが筋なのですが、関羽の性格からして
「虎の子を犬の子にやれるか」と侮蔑した断り方をしたとも伝わっています。
力を認めていない相手には敵でも見方でも容赦がありません。
自尊心が高いが故にこじれる人間関係
関羽は荊州から北上し、魏を攻めました。
関羽の武名を知っている魏の官吏や民衆は恐怖したそうです。
あの曹操が遷都を覚悟したほどだったと云われています。
快進撃を続ける関羽でしたが、味方の裏切りにあって足元をすくわれます。
同盟国である孫権に離反され拠点を奪われ、兵站の道を閉ざされました。
裏切って孫権についたのは古参の将である麋芳であり、士仁です。
日ごろから関羽とはうまくいっておらず、兵糧の供給問題で処罰の対象になっていたようです。
彼らは苛烈な性格の関羽に怯えて孫権に降ったというのがおおよその見方になっています。
また、これ以前に、関羽は己の武力を自負した戦い方をよくして兵を多く損失したことも、
味方から批判の対象になっていたようです。
認めた相手は敵でも親交を深める
敵国で関羽と仲が良かった武将といえば魏の張遼、そして徐晃です。
関羽はこの二人の戦上手ぶりをたいへんに認めていたようです。
関羽が曹操に一時降るときも張遼が外交交渉に出て来ています。
張遼、徐晃といえば曹操の旗下で数々の武功をあげた名将です。
尊敬すべき人物に対しては関羽は礼を尽くしたと云われています。
この一貫した信念も関羽の魅力なのかもしれません。
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関羽を諫めるものは誰もいない
主君である劉備の義兄弟であり、
最も武功をあげてきた関羽に意見できる人物は蜀にはいなかったようです。
孔明ですらかなり関羽に気を使っていたことがわかります。
これが関羽の独断専行を招き、味方の離反を招くことになった原因かもしれません。
己にも厳しく、他人にも厳しい関羽は一緒にいると息が詰まるような存在だったのではないでしょうか。
もし、龐統(ほうとう)が生きていれば上手く関羽に意見し、
バランスを保てたのではないかとも云われています。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
劉備や曹操に愛された英雄、関羽。
それが関羽を増長させる原因になってしまったのかもしれません。
呉の裏切り、味方の離反がなければ関羽は、
曹操の本拠地まで攻め寄せていただろうに、実に残念な最期です。
蜀が滅びたとき、以前に関羽が討った龐徳の子息たちによって
関羽の血筋のものは皆殺しにあったそうです。
その苛烈な生き方は敵にも味方にも憎しみを抱かせる結果になったようですね。
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