光武帝はとんでもないスピリチュアマニアだった!?劉秀の意外な一面

2016年10月1日


 

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光武帝

 

内政にも外交にも過失がなく、背いた人間でも、かなりの割合で許しているなど

チートな英雄の称号を受ける事が多い光武帝、劉秀(りゅうしゅう)ですが、

人間、万能に見えても何かしら欠点があるものです。

光武帝の欠点とは、彼が桁外れのスピリチュアルマニアだった事でした。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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万能人間なのに、自分に自信がない劉秀が頼ったスピチャ讖緯(しんい)

光武帝

 

光武帝は、矛を取っては、3000の兵で42万の王莽(おうもう)の軍勢を打ち破り、

内政でも疲弊した漢の国力を減税と奴隷解放と兵士の帰農で回復させるなど、

比類がないチートな才能を示しました。

 

しかし、こうした人の常で自分にどれだけ才能があるか自覚しておらず、

光武帝はあろうことか「僕は何をしても人並み以下だから・・」

謙遜を通り越して自分を卑下している所がありました。

 

そんな光武帝が頼りにしたのは讖緯という一種の予言書でした。

現代で言えば、「人の運命には天の意思が働いている」というスピリチャルなものです。

「スピリチャルが勧めているなら、僕が皇帝になるのも仕方ないよね」

そんな理由で皇帝になる位ですから、光武帝のスピチャマニアぶりは、

ほぼ病的なレベルに到達していました。

 

讖緯って具体的にはどんなモノなの?

キングダムと三国志

 

元々、讖と緯とは別のもので、讖とは、未来を予言することを意味していて、

予言書のことを「讖記」などと呼んでいます。

 

一方で緯とは、儒教の経典に対応する「緯書」と呼ばれる書物群を指すものでした。

「緯書」は、詩、書、礼、楽、易、春秋、孝経の七経に対応し、縦糸に対する

横糸の扱いで、経の理解には必要不可欠な書物です。

 

しかし、緯書は太古に造られたもので、天文学や地理や暦法知識を豊富に含むと共に

神話や伝承、予言書等もあり、それがやがて「讖記」と混同し共に予言を指す言葉と

それを記した書物として、併せて用いられるようになりました。

 

黄巾賊や日本の皇室も信じた讖緯

黄巾賊

 

また、讖緯には、暦法を利用した予言もあり、辛酉(しんゆう)の年を基点として、

干支が一巡する六十年を一元と区切り、二十一元を一蔀(1260年)と規定して、

一元(60年)毎の甲子の年、戊辰の年、辛酉の年には社会には動乱が発生し、

1260年毎には、国家に大変革が訪れるとしていました。

 

例えば黄巾賊は、わざと動乱が起きるとされる甲子の年である、西暦184年に

挙兵する事で讖緯を活用していますし、日本の皇室は陰陽道を通じて讖緯を輸入し

六十年毎にやってくる辛酉の年には、縁起が悪いとして一世一元の制が導入される

明治まで、必ず辛酉の年には元号を変えて災厄を避けようとしています。

 

このように讖緯は100%オカルトではないのですが、その中には、

今では迷信に過ぎない情報が多く含まれていて、人物によっては、

強く信じる人もそうでない人もいました。

光武帝は、その迷信部分を強く信じているスピチャな人だったのです。

 

讖緯で王梁を大司空に任命してしまう光武帝

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しかも、光武帝、自分が皇帝になるばかりでなく、スピチャのお告げで、

王梁(おうりょう)という部下を大司空という三公の一人に任命しています。

 

その根拠というのが、「赤伏符(せきふくふ)」中の一文、

「王梁、衛を主(つかさど)って玄武と作(な)る」という讖文(しんぶん)でした。

 

劉秀はこれを「野王は衛の元君の移る所、玄武は水神の名だし、

司空は水土の官じゃあないか!!」と解釈します。

 

事実、王梁が県令をしていたのは野王県で、

元来は衛の元君が移って来た土地でした。

 

「これぞ、王梁を大司空にせよというスピチャのお告げだ!!」

 

光武帝はこうして、王梁を三公の一人大司空にしますが、

大司空7年目に運河の開削工事で失敗、弾劾を受けて辞職を願い出てしまいます。

こうしてみると讖緯に選ばれた割には、

特別に王梁が優れた人物であったというわけでもありませんね。

 

また、光武帝は同じ頃に讖文に基づいて平狄(へいてき)將軍、

孫鹹(そんかん)を大司馬の代行とします。

ところが、孫鹹は大した人物ではない事から群臣から反対を受け人事を撤回、

結局、声望がある呉漢(ごかん)を大司馬にしました。

 

 

つまり、孫鹹に関しては、本当にスピチャな部分だけで、光武帝は大司馬を決めてしまうのです。

 

三国志で袁術(えんじゅつ)が春秋識(しゅんじゅうしき)という讖文で

皇帝に即位したのも、光武帝のやりようを見ていると

そこまで度外れではないような気がしてきました。

 

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功臣達を天の二十八宿になぞらえるロマンチストな光武帝

光武帝

 

光武帝には、彼の覇業を補佐した二十八の功臣が存在していました。

そこで彼は、いつものように・・

 

「この素晴らしい家臣達も非才な私に、

スピチャの神が送ってくれた贈物に違いない」

 

そのように考えて、天の赤道を通過する二十八の星座になぞらえ、

雲台二十八将として顕彰しました。

これは東洋の占星術で使われる二十八宿と対応しています。

 

自分の功臣達を天の星座に例えるなんて光武帝は何とロマンチスト、、

まるで聖闘○聖矢じゃあないですか。

もちろん、これも自分を超える天の意思スピチャを信じていた

光武帝の発想と無縁ではありません。

 

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普段は温厚なのに・・スピチャを否定されて家臣を殺そうとする・・

光武帝

 

しかし、世の中には、そのような予言のごときスピリチュアルなど

存在しないとこれを全否定する人物だって存在します。

桓譚(かんたん)は前漢時代から仕えた儒学者でしたが、

彼は讖緯の類を出鱈目で非現実的だと全否定していました。

 

元々、儒教自体が、孔子以来、「怪力乱神を語らず」で、

目に見えない力などは非現実で、信じるに足りないとする

合理的な学問なので、讖緯を胡散臭いと考える桓譚のような

人物も、一部ではありますが存在していました。

 

それだけなら良かったのですが、桓譚は光武帝の目の前で、

 

「讖は正式な経典ではありません無効です

そのようなモノを信じるべきではありません」

 

と面と向かって意見してしまいました。

 

 

桓譚が光武帝に諫言をしたのは、これが初めてではなく、

毎度の事だったようで、特に、光武帝が何でもかんでも讖緯で決め

部下に仕事を与えない事から、もっと仕事をさせて給料を増やすように

何度も要望していました。

それが、たまたま光武帝の信じている讖緯の否定につながったので

その日、虫の居所が悪かった光武帝はキレてしまいます。

 

「なんやて!!スピチャの神さんのお告げで

皇帝に即位したワイに、そんなモンおらんと抜かしおるんかいゴルァ!!

おんどれ、ぶち殺したるでェ!!」

 

光武帝は、齢七十歳を超えようという桓譚に怒り心頭に達し、

その場で斬殺しようとします。

普段、温厚な光武帝の豹変ぶりに驚いた桓譚は頭を床に叩きつけて

謝罪し、何とか死罪は免れましたが、宮廷を追いだされ左遷されました。

 

以来、桓譚のようにスピチャに懐疑的な人々は、

すべて光武帝の不興を買い出世できなくなりました。

こうして、讖緯の解釈は後漢時代を通じて盛んに行われる事になります。

後漢スピチャブームは、光武帝によって火をつけられるのです。

 

いや、まあ、何事も神様に感謝するのは謙虚な心でいいのですが、、

何も、それを全否定する人を殺そうとするのは、、ねえ・・

 

 

後漢演義ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

この光武帝を自分の覇業の模範としたのが、魏の曹操(そうそう)でした。

しかし、曹操は儒教の本質である合理主義を最大限重んじた人物です。

「運命は自分で切り開くモノ」と信じる曹操はスピチャなど鼻で笑うと

思いますが、この光武帝のスピチャマニアぶりをどう捉えたのでしょうか?

興味は尽きない所ですね。

 

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