大国・魏と諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)のいる蜀との間にあってよく国を治め、
また発展させてきた名君です。
孫氏の中では珍しく長命で、71歳まで生きて天寿をまっとうしました。
名君・孫権の老衰ぶり
その孫権が名声を大きく下げることになるのは晩年の話です。
太子であった孫登(そんとう)が西暦241年に33歳で亡くなったのが
きっかけで国を揺るがす後継者問題が勃発するのです。
孫権が後継の太子を誰にするかで悩んだのが原因でした。
まさに袁紹(えんしょう)と同じ轍を踏んだのです。
一端は孫和(そんか)を太子に選びますが、同じく孫覇(そんは)を
魯王に封じて同等の待遇を与え国を混乱させます。
家臣もどちらが次期皇帝になるのかと動揺し、派閥争いが起こります。
さらに孫権は若い藩夫人を寵愛し、生まれた孫亮を新太子にしたのです。
孫和は廃嫡、孫覇には死をたまわりました。
しかもその後継者問題を解決しようと諫言した陸遜を自害に追い込んだのです。
病死した孫権の跡を継いだ孫亮はなんと10歳で即位することになります。
古今東西難しい家督問題
同様の出来事は日本でもありました。
関白・豊臣秀吉の晩年です。
我が子の秀頼に家督を譲るために身内すら処刑しています。
後継者問題は稀代の英雄すら狂わせる魔力を持っているのです。
あの曹操でも曹丕、曹植のどちらに家督を譲るかでかなりの期間迷っていました。
実際に派閥争いも発生しています。
通常であれば長兄が家督を継ぐものですが、
親の愛情はそう簡単に割り切れるものではないようです。
同じ我が子でも平等にはできず、偏った愛情になってしまうケースも多々あります。
そしてその迷いと独断が家を滅ぼす火種となるのです。
三国志の時代でも名門である袁氏の家督を巡って袁術と袁紹が争っています。
もしこの二人が手を取り合っていたら天下は袁氏のものになっていたかもしれません。
それが無駄な家督争いで傷つけ合い、滅びていくのです。
司馬懿の晩年
それでは「軍師連盟」の主役である司馬懿の場合はどうだったのでしょうか。
彼は孫権や曹操、袁紹らと違い、まだまだ周囲に政敵がいる状態で晩年を迎えています。
要するにまったく油断することができなかったわけです。
最期の最期まで緊張感を持って生きていたのが司馬懿だといえます。
司馬懿は孫権と同じくらいの年齢で亡くなっていますが、
後継者問題ではまったくもめていません。
それどころか司馬懿の長男である司馬師(しばし)と次男の司馬昭(しばしょう)は
手を取り合ってその後の権力闘争のなかを生き抜いていきます。
このことで司馬氏は一層の力を得ることになるのです。
司馬懿の教え
司馬懿は病床にあって、我が子たちに「他人を信じず、慎重に政治を行うこと」を伝えています。
我が子の自立をより強く促す言葉であり、厳しい現実を生き抜く術を伝えました。
孫権は10歳という幼い太子に帝位を後継することになりますので、
後見役に我が子を盛り立てることを切に願って亡くなっていきます。
このとき太傅に任じられたのが諸葛恪であり、
さらに後事を託したものに一族の孫峻や孫弘がいました。
孫権が亡くなるとすぐに諸葛恪(しょかつかく)は孫弘を偽勅を書いているとして誅殺しています。
その諸葛恪も孫峻に暗殺されました。
同様に日本では豊臣秀吉が幼い秀頼の後見を徳川家康や石田三成に託しますが、
亡くなってすぐに対立し、石田三成は敗戦し打ち首になっています。
また豊臣氏は徳川家康によって滅ぼされました。
他人を頼った家督相続は必ずつけ入る隙を与えてしまうのです。
枕頭で我が子に語った司馬懿の言葉は、
そのまま司馬氏を支える思想となり、司馬氏の繁栄を確固たるものにしました。
晩年の扱いが孫権と司馬懿で違うのはそのためです。
「軍師連盟」で司馬懿が注目されたのもその辺りがポイントなのではないでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
英雄らしい晩年を経て冥途に旅立つものがいる反面、
これまでの輝かしい経歴をすべて塗りつぶしてしまうような醜い晩年を迎えるものもいます。
司馬懿は「軍師連盟」で取り上げられるように、壮年期も類稀なる武功をあげていますが、
晩年期もより老練に、より慎重に名声を高める演出を行い、司馬氏繁栄の礎を築きました。
家を衰退させる原因を作って死んでいった孫権とは大きな違いです。
老害とは現代社会でも避けては通れない問題ですが、
司馬懿に限っては当てはまることはないでしょう。
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