曹氏に仕えた文官・武将は数多くおり、
皆さんが知っている武将は数多くいると思います。
今回紹介する武将は三國志好きでも知っている人は少ないマイナーな武将です。
しかし彼は曹氏三代に仕えた文官の宿将と言っても過言ではありません。
その名を廬毓(ろいく)と言います。
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この記事の目次
廬植の息子として生を受ける
後漢の名文官と言われた廬植(ろしゅく)。
彼の息子である廬毓は、
父と共にあまり過ごした事がないまま亡くなってしまいます。
父の死後、兄と共に暮らすことになりますが、
兄二人も戦の中で亡くなってしまいます。
兄嫁と兄の子供を引き取って育てる
廬毓はその後学問を続けながら生活していきますが兄の奥さんと兄の息子は、
夫が亡くなってしまったことで途方に暮れてしまいます。
廬毓は兄の奥さんと息子を引き取って養いながら学問を行い、
見識を深めていきます。
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曹氏に仕官
廬毓はこうして苦労を重ねながら、学問を続けていき見識を深めていきます。
その後彼は曹操に招かれて、仕えることになり、曹丕の元に配属されることになります。
そして曹丕(そうひ)が五官将に任命されると
廬毓は盗賊を取り締まる役職に任命。
彼はこの役職につくとすぐに実績を挙げます。
住民のために皇帝へ上奏
曹丕が皇帝の位に就くと彼は故郷である譙(しょう)の土地が、
痩せて農業に適さなくなってきていることを知ると、栄えさせる様廬毓に命じます。
廬毓は曹丕の命令を受けて、譙へ向かいますがこの土地は、
既に戦乱によってボロボロになってしまって、
以前のような豊穣な土地に戻すのは、不可能な状態になっていました。
そこで廬毓は皇帝・曹丕に
「住民を肥沃な土地へ移住させてそこで農業をさせた方が、
良いのではないのでしょうか。」と進言。
曹丕はこの進言を受け入れることにし、
民衆を豊かな土地へ移住させることにします。
地方の太守へ異動となる
廬毓は民衆の移住の進言を行った後、地方の太守に異動となります。
彼は太守に任命されると民衆に対して、
戦乱によって人民の荒廃した心を改善するため、色々な教化を施します。
また太守もなった所の土地の大部分が、荒廃していた為、民衆へ恩恵を施します。
その結果民衆の心は豊かになり、廬毓を慕ってくるようになります。
人材の登用選抜法を見直す
曹丕が若くしてなくなると魏の二代目皇帝に、
曹叡(そうえい)が就任します。
彼が皇帝に就任した時、魏の国内では
四聡八達と称して各地の人物を批判したり、
評価したりしておりました。
彼らの事を知った曹叡は勝手な評価や批判に憤りを感じます。
そして彼は廬毓を人材登用を行う役職につけた後、彼を宮殿に呼び
「国内にいる人材を名声だけで判断しないで、
実績において判断するように」と
命令を下します。
この命令を受けた廬毓は「陛下。私は凡人であるため人材を登用する場合は、
名声を得ていることも加味して登用します。
しかし今後は登用する人の実績も明らかにすることでより有能な人材を手に入れることが、
出来るのではないのでしょうか。
また登用された人材の評価をするべく法が無くなっているため、
仕官してくる人材は名声という曖昧な物を基準としてきました。
そこで今後は人材を評価する法を復活させて名声に寄らない
人材登用を行っていきたいと存じます。」と述べます。
曹叡は盧毓の進言をもっともだと頷き、彼に人材を登用する際の基準を作らせます。
しかしこの人材登用の基準法を製作している途中に、皇帝曹叡は亡くなってしまいます。
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曹爽が魏の政権を牛耳る
曹叡が亡くなると魏の三代目皇帝に曹芳(そうほう)が就任。
曹叡は亡くなる前、曹芳が幼かったため司馬懿と曹爽にしっかりと補佐をして
魏の国を支えていくように遺言を残します。
しかし曹爽は司馬懿を朝廷から追い出して、魏の政権を牛耳り始めます。
この時彼の側近であった人物を実績もあまりないのに高位の位へ次々と任命させていき、
盧毓も人材登用の選考方法の法律を製作中であったにもかかわらず、
左遷させられてしまいます。
こうして魏jの政権を自らの手で掌握すことになった曹爽ですが、長くは続きませんでした。
司馬懿が魏の政権の中枢を握る
曹爽は魏の政権を握って有頂天になっておりましたが、
司馬懿(しばい)のクーデターによって権力を奪われてしまいます。
その後彼は餓死してしまいます。
そして司馬懿が魏の政権を握ると盧毓も中央に戻ることができ、
人材登用の職に復帰します。
そして新たな人材選考法を確立させ司馬懿が亡くなった後は魏の政権内において、
文官の重臣として用いられることになります。
その後、司馬師(しばし)が司馬懿の跡を継ぐと三公の位である司空へと昇進を果たしますが、
病に倒れてしまい、亡くなってしまいます。
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三国志ライター黒田廉独り言
盧毓のようなマイナーな武将達は決して武将達のような華やかな活躍をすることは、
滅多にありませんが、彼らが政権をしっかりと支えておりました。
また息子達も父と同様に文官の道へと進み、魏の政権が滅亡すると晋王朝に仕える事に
なります。
盧植から受け継がれた文官の血筋はこうして
三代の王朝の基盤をしっかりと支えていくことになります。
「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。
じかいもまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃ~またにゃ」
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