国士無双の韓信が滅びるきっかけを作ったのは劉邦のせいだった?

2016年11月7日


 

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韓信 項羽

 

楚漢戦争時代楚の項羽(こうう)の元にいた韓信(かんしん)

彼は項羽が自分を取り立ててくれないことに嫌気がさして、

劉邦(りゅうほう)の元に寝返ります。

劉邦は夏侯嬰(かこうえい)簫何(しょうか)の説得によって韓信を見出し、

彼を将軍として出世させます。

その後韓信は劉邦軍を率いて・趙・斉を攻略して自らの軍事の才能を天下に見せつけます。

だが彼は漢が天下統一した後、

謀反をたくらんだ罪で殺害されてしまいます。

彼が謀反をたくらむ一番最初のきっかけを作ったのは

劉邦に原因があったことをご存知でしょうか。

 

前回記事:これは酷い!韓信、あっさりと親友鐘離昧を売る。韓信の性格に難あり親友はブチ切れ

関連記事:漢の400年は、たった8年の激しい戦いから生まれた?三国志の前哨戦、楚漢戦争!

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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滎陽城を何とか脱出

陳平

 

劉邦は滎陽城(けいようじょう)攻防戦で、

楚軍に敗北する寸前まで追いつめられると陳平(ちんぺい)が献策してきた、

劉邦身代わり作戦を決行したことで何とか滎陽城を脱出することに成功します。

この作戦は簫何が治めている関中へ入り、態勢を立て直すことが目的でした。

だが関中に入ってから態勢を立て直すには二つの難点がありました。

一つ目は兵士を訓練しなおさなければならない点です。

関中で募集した兵隊はすでに滎陽城攻防戦において大半が討たれてしまい、

新しい兵士を関中で募らなくてはならない難点がありました。

二つ目は滎陽城から関中までの距離が結構遠い事です。

この二つの難点があったので劉邦は関中へ行くかどうか迷っていました。

そこへ従者が「韓信将軍が援軍を引き連れて滎陽城近辺にやってきているそうです。」と

知らせてきます。

劉邦はこの報告を聞くと妙案を思いつきます。

 

劉邦の奇襲作戦

劉邦

 

劉邦は韓信の陣営へ行って兵士をパクってしまおうと考えつきます。

韓信の軍勢は趙と魏を討伐しているため、兵士の質も極めて練度の高い兵隊がそろっており、

関中へ行って新兵を訓練するよりははるかに短い期間で精強な兵隊が手に入ります。

しかし韓信がそう簡単に精強な兵士を手放すわけはありません。

そこで劉邦は秘策を考えつきます。

劉邦はぼろ身にまとい韓信の陣営に到着すると、

「漢王からの伝令である」と身分を偽って見張りに立っている兵隊に伝えます。

すると見張りに立っていた兵は劉邦と気づかず、彼を韓信が寝ている宿舎に案内します。

ここで劉邦はボロを着替えて身なりをしっかりとした後、

韓信が寝ている隙をついて彼の将軍の

証である印綬をパクります。

そして彼は韓信を蹴っ飛ばして、

「今からここの兵士は俺が指揮する」と横柄な態度で宣言。

こうして劉邦は韓信が率いていた精鋭部隊を難なく手に入れることに成功します。

 

少数の兵士を率いて斉攻略に向かう

韓信vs孔明06 禰衡と鍾離昧

 

韓信は寝ていたところをたたき起こされて何が起きたか全くわからないまま

兵士を劉邦に奪われてしまいます。

そして劉邦から「お前に数千の兵士を与える。この兵隊を率いて斉攻略へ迎え」と命令を受けます。

韓信はこの命令に従って大国である斉攻略へ向かうことになります。

 

韓信の斉攻略とは別に外交官を斉へ派遣する

韓信と鍾離昧

 

劉邦は食客として養っていた儒者・酈食其(れきいき)から

「私が斉を降伏させてきましょう。」と進言。

劉邦は酈食其の進言を受け入れて彼を斉の国派遣します。

この時劉邦はとんでもないミスを犯します。

それは斉攻略へ向かっている韓信軍に酈食其の存在を伝えなかったことです。

なぜ劉邦は韓信に酈食其の存在を伝えなかったのでしょうか。

 

斉を降伏させることなどできないと思っていたから

韓信と鍾離昧

 

劉邦は韓信になぜ斉に酈食其を派遣したと伝えなかったのでしょうか。

それは酈食其の弁論では斉を降伏させることなどできないと思っていたからです。

酈食其は儒者で、劉邦はあまり役に立たない言葉ばかりを言うこの儒者達が大っ嫌いでした。

彼は軍中に幾人か儒者がおりますが、彼らの意見をほとんど採用したことがありませんでした。

上記の理由が原因で彼は酈食其を斉に派遣したことを韓信に伝えなかったのです。

 

韓信軍は斉降伏を知るもそのまま斉を攻撃

韓信 将軍

 

酈食其は斉に到着すると斉・田広(でんこう)の説得に成功。

こうして斉は漢へ降伏することになります。

韓信は斉が降伏したことを知っており、斉へ向かう途中で軍を停止させ、

斉攻撃を中止しようと考えておりました。

しかし韓信の配下である蒯通(かいとう)の説得によって、韓信は斉攻撃を強行することに。

斉は韓信軍が来ても国境に駐屯していた守備軍を解散させていたため、

大した抵抗をすることができずに滅亡寸前にまで追いつめられることになります。

そして斉の大半を奪うことに成功した韓信は、

漢と楚の二つの勢力を上回る領土を得ることになるのです。

 

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楚漢戦争ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

韓信は斉を奪ったことで傲慢になり、劉邦が援軍を要請しても送ることはしませんでした。

さらに彼は「斉王にしてくれたら援軍を送る」と劉邦にせがみます。

 

韓信と劉邦

 

この時劉邦は配下でありながら傲慢になった韓信を恨み、

終生忘れることをしませんでした。

その後韓信軍の援軍が来援してきたことがきっかけで楚は滅ぶことになるのですが、

韓信自身の運命も楚が滅亡したことで滅びへと向かっていくことになります。

もし劉邦が韓信へ「酈食其を使って斉が降伏するように交渉している。

だから斉攻略は一時中止だ。」と伝えていれば、

韓信が滅亡することはなかったのではないのでしょうか。

「今回の楚漢戦争時代のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。

それじゃ~またにゃ」

 

楚漢戦争

 

 

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