献帝死亡説を利用した?劉備が漢中王に即位したのは孔明と法正の入れ知恵の可能性が浮上!

2016年11月13日


 

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劉備玄徳が眩しい理由 三国志

 

劉備(りゅうび)は西暦220年、成都で即位して蜀漢を建国します。

しかし、よくよく考えると、漢王朝復活を標榜した劉備が献帝は存命中にも関わらず、

皇帝に即位しているわけでそれって失礼ではないでしょうか?

実は、そこには、献帝死亡説を利用した劉備の策略がありました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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劉備、漢中王に即位する時には、献帝に打診する

献帝 恩賜の御衣

 

痩せても枯れても後漢は存在する限りはカリスマです。

袁術(えんじゅつ)のようなラディカリストは、兎も角、一般の諸侯は

実質はどうあれ、州牧や州刺史の地位を得られるように上奏しているのです。

それは漢王室を恐れるというより、その瑕疵を政敵に宣伝され、

不忠者の烙印を押されるのを恐れたからでした。

 

法正と夏侯淵

 

劉備は、西暦219年に、定軍山で夏侯淵(かこうえん)を討ち取り、

漢中を得て献帝に使者を派遣して漢中王の位を求めています。

これも、黙って即位して不忠者と批判されるのを免れる為の

劉備の深慮遠謀だったりするのです。

 

朝まで三国志ラフ89

 

このように劉備は、内心は、曹操顔負けの真っ黒くろすけながら、

政敵に挙げ足を取られない強かな手を打っていきます。

 

漢中王即位の上奏文は、どんなもの?1

劉備

 

劉備は、群臣が道義を元に漢中王に即位しろとうるさいので、、

という前置きを何度も強調した上で以下のような上奏をします。

 

「私は愚かで非才の身で三軍を指揮しておりますが、

未だに難敵を排除できず頭の痛い毎日を過ごしております。

思えば、董卓が暴虐の限りを尽くしてより、各地は賊で満ちましたが、

陛下の御威光の前に、それらは氷のように溶けて全て倒れ、

現在は、ただ、曹操のみが暴虐を欲しいままにしております。

私は昔、車騎将軍、董承と組んで、曹操を排除しようとしましたが、

失敗、結果、皇后様が害され、皇子様まで殺害されました。

その後、同盟を結んで曹操を倒そうとしましたが、いまだ、

実績が上らず、悔しい思いをしている所です」

 

こちらは上奏文の前半で、劉備が非才ながら、曹操を倒して、

漢室を救う為に四苦八苦している様子を書いています。

 

漢中王即位の上奏文は、どんなもの?2

曹操

 

上奏文の後半で、劉備の本当に言いたい事が明らかになります。

 

「私の群臣は、かつて漢の同姓の藩屏が漢の天下を助けた事を頻りに申します。

曹操が漢の天下を窺う野心は隠しようもありませんが、いかんせん、

現在の漢室には有力な藩屏がおらず、故に曹操に有効な打撃を与えられません。

そこで、群臣は、古来の式に則り、私を大司馬・漢中王としたものです。

もちろん、私は我が身を省みて、役不足である事は重々承知していますが、

乱世で、この任にあたる以上、我が身を砕いて奮戦する覚悟です。

つきましては、群臣の勧めに従い、印璽を拝受し、同時に帝より以前頂いた

左将軍・宜城亭侯の印綬を返還いたしたく存じます」

藩屏(はんぺい)とは劉氏の姓で王族として各地に割拠した小王国を意味します。

前漢では、呂后(りょこう)の死後、小王国の王族は周勃(しゅうぼつ)や

陳平(ちんぺい)と協力して、呂氏を誅滅していますから、劉備は藩屏として、

後漢を全面的に防衛し曹操を排除したいと言ったのです。

 

献帝は返還された印綬を受け取りますが、色々な事情で漢中王の地位は与えず

大司馬のみ任命しますが、もちろん、そんな事は劉備の知った事ではなく

そのまま漢中王に即位します。

 

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西暦220年、献帝に死亡説が流れる・・

曹丕皇帝

 

西暦220年、10月、曹丕(そうひ)は献帝に禅譲を迫り即位します。

その時、何がどうなったのか?曹丕は献帝を殺して帝位を奪った

というような死亡説が流れたのです。

 

曹植

 

これは、曹丕の性格から、本当だと信じられ、曹植(そうしょく)や硬骨漢で知られた

蘇則(そそく)まで信じて哭礼をしたというので、広く流布したデマでした。

そして、この噂は益州まで伝わります。

 

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蜀書、先主伝のおかしな記述・・

朝まで三国志 劉備

 

劉備はその伝聞を聞いて怒り、喪に服した上で献帝に孝愍(こうびん)皇帝を追諡。

そして、滅んだ後漢を引き継いで蜀漢を建国します。

まあ、一連の流れはいいとして気になるのは、蜀書、先主伝の赤字の記述です。

 

二十五年、魏文帝稱尊號、改年曰黄初。或傳聞漢帝見害

先主乃發喪制服、追諡曰孝愍皇帝

 

この記述では、或る伝聞では漢帝が殺されたと見ゆるとしています。

いやいやいや!オカシイでしょう、こんな重大な情報を或る伝聞で済ませるとは

しっかり裏を取らないと間違いだったら、勝手に追諡して自害モノですよ。

どうして、信憑性を確認しないのか?本当に後漢に忠義を尽くすなら、

陛下は生きているに違いないと捜索くらいするでしょう・・

 

劉備は孔明や、法正と謀り、デマに乗った・・

法正

 

これは、どう考えても、劉備のおっちょこちょいではありません。

恐らく、劉備や孔明や法正は、どうやら伝聞はデマで献帝は生きていると

知っていながら、皇帝に即位するのに都合が良い、献帝死亡説を受けいれて

騙されたフリをしたのだと考えられます。

 

だからこそ、誰にも罪を背負わせないように、或る伝聞として、

誰情報か分らないようにしたのでしょう。

もちろん、後で献帝が生きていると知っても、最早、即位したので

引っこめられない、で押し切るつもりだったのでしょう。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

曹丕は、禅譲という形式を踏まえ、献帝から位を奪った後も、

様々な特典で、後漢を重んじる態度を取りましたが、

帝位を奪ったという悪名は消しようがありませんでした。

それに比べて、献帝死亡説に乗って、曹丕を罵り、ちゃっかり即位した

劉備には、何らの傷もついていないです。

事実は、敢えて、デマに乗った不忠者に違いないにも関わらず!

 

こうして見ると、劉備は要領が良い、悪党だなとつくづく思います。

いや、もしかして、孔明と法正の腹黒さの方が上だったのかも・・

 

本日も三国志の話題をご馳走様です。

 

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法正

 

 

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