鄧禹(とうう)とはどんな人?光武帝の親友だが戦争にべらぼう弱い雲台二十八将の1人

2016年11月23日


 

鄧禹

 

チートな英雄、光武帝(こうぶてい)には、かれの覇業を支えた雲台二十八将という家来がいました。

その家来の中で、鄧禹(とうう)は第一位の筆頭で最も高い信頼を得たと言えます。

しかし、そんな鄧禹、別に百戦百勝の優秀な将軍でもなく、神算鬼謀で敵を撃滅する

軍師でもなく、むしろ軍事では失敗が多く、味方の足を引っ張る事さえあります。

では、どうして、そんな鄧禹が重んじられたのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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数少ない挙兵以前からの光武帝の友達

鄧禹と光武帝

 

鄧禹は、西暦2年に荊州南陽郡の新野で豪族の家系に生まれました。

新野といえば、はるか200年後に劉備(りゅうび)一行が

荊州牧、劉表(りゅうひょう)の客将として、珍しく平穏な時を過ごした場所です。

 

鄧禹は優秀で13歳では詩経を暗唱し数年間、長安に遊学しました。

ここで鄧禹は7歳年上の光武帝、当時は劉秀(りゅうしゅう)と出会い

親交を深めたようです。

 

光武帝劉秀part2 02 劉秀

 

しかし、当時の劉秀は家の仕送りが乏しく生活費を稼ごうと友人とロバを

共同購入して、ベンチャーで運送業をするなどバイト三昧。

そもそも勉強自体好きでもなく、遊び金欲しさにバイトに身を入れてしまう

典型的なボンクラ学生でした。

 

西暦22年、劉玄が挙兵するがスルー

鄧禹

 

長安での遊学を終えて、帰郷した鄧禹は、さらに個人でも学問を積んでいました。

すでに、王莽(おうもう)の興した新王朝は行き詰まり、各地では

赤眉の乱という農民反乱が頻発、王莽は赤眉を撃破すべく十万の大軍を送り込みますが、

西暦22年、王莽の軍勢は赤眉軍に敗れ統治能力の低さをさらけ出します。

 

事態を静観していた各地の豪族層も、それを見て立ちあがります。

豪族の軍勢は、緑林(りょくりん)軍、新市(しんし)軍、平林(へいりん)軍、

下江(かこう)軍、そして、劉秀の兄の劉縯(りゅうえん)の軍勢などがいましたが、

やがて一本化して劉玄(りゅうげん)という男がリーダーになっていきます。

 

この頃、劉玄は広く賢人を集めようと各地で目ぼしい人物に使者を出しては

スカウトしていましたが、鄧禹は推挙されてもスルーしていました。

鄧禹は劉玄が見せ掛けだけのボンクラだと見抜いていて禍を避ける為に

出仕しなかったようです。

 

劉秀が河北に派遣されたタイミングで仕官する

 

西暦23年、劉玄は諸将に推戴されて更始(こうし)帝として即位します。

彼は、王族の劉氏なので、漢王朝の復興を大義としたのです。

 

王莽

 

王莽は威信を賭けて百万と号する42万の大軍をぶつけてきますが、

劉秀は僅か3千の兵力で王莽軍を撃破しました。

 

これを昆陽の戦いといい、これで完全に全土の豪族から見限られた王莽は

重臣達にも去られ、同年10月、長安に更始帝の軍勢が入城。

混乱の中で王莽は殺され、新王朝は僅か15年の歴史を閉じました。

 

しかし、王莽を倒すのに功積があった劉秀と劉縯を邪魔に思った

更始帝は、まず劉縯を誅殺、次に劉秀に河北平定の任務を与え、

行大司馬として左遷しました。

 

左遷とは言え、殺されずに済んだ劉秀は鄴(ぎょう)に入城し、

河北に自身の勢力範囲を築こうと考えます。

この時に劉秀の下に馳せ参じたのが鄧禹でした。

 

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数年ぶりの再会で憎まれ口を叩く二人

鄧禹と光武帝

 

鄴にやってきた久しぶりの友人との再会に、劉秀は横柄な態度で接しました。

 

劉秀「これは、これは大先生、今頃、のこのこお越しとは、あるいは?

もしや?ひょっとして?私に仕えて手柄を立てたいのですか?」

 

鄧禹「いえ、大きな欲などありません、ただ、賢明な王を補佐して天下を統一し

歴史書に、ほんの少し記述が載れば満足です」

 

こんなやりとりの後、二人は大声をあげて笑い互いの無事を喜びあいました。

この時、劉秀29歳、鄧禹は21歳、共に二十代の若い主従の誕生です。

 

鄧禹の軍は規律厳正、各地で反乱軍を破る

王郎

 

間も無く河北では、占い師あがりの王郎(おうろう)という男が前漢の成帝の遺児の

劉子輿(りゅう・しよ)を詐称して邯鄲で蜂起、河北の豪族を味方につけ

劉秀の首に懸賞金を掛けます。

 

鄧禹と兵士

 

北方に向かっていた劉秀は窮地に陥りますが、鄧禹は精兵数千を集めて、

王郎の軍勢に抵抗しながら、その勢力を撃破、さらに銅馬(どうば)軍という

食い詰めた農民の反乱軍も何度も撃破する大功を挙げて河北統一に貢献します。

 

鄧禹の軍は規律厳正で、当時の軍では当たり前の略奪も許さなかったので

人心を得る事、甚だしく、鄧禹の軍が来ると武器を投げ捨てて降伏する

軍勢が沢山ありました。

 

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劉秀、全軍の半分の兵力を鄧禹に預け、西方平定を命じる

赤眉軍

 

西暦24年、更始帝は即位すると贅沢に耽り、側近に政治を任せてしまいます。

その政治に不満を持った勢力は各地で蜂起、特に赤眉軍は利用だけされて、

領土も中々与えられない事に激怒し、自らも劉盆子(りゅうぼんし)という

劉邦の末裔の15歳の牛飼いの少年を擁立して更始帝軍に背きます。

 

ここで、赤眉軍対、更始帝軍が激突し、光武帝はこの隙に関中を併合しようと考え

自らは中原の支配強化の為に残り、鄧禹を前将軍として仮節を与え、

全兵力四万の中の半分を与えて西征を命じました。

 

西暦25年、鄧禹は期待に応え、河東郡で更始帝の大将軍、樊参(はんさん)の兵数万、

王匡(おうきょ)、成丹(せいたん)、劉均(りゅうきん)らの兵十余万を撃って平定し、

地方官の配置換えにより光武帝の支配を徹底します。

 

同年に劉秀が即位すると鄧禹は大司徒を拝命し、酇(さん)侯に封ぜられ、

食邑1万戸を授けられ、そのまま征西軍を指揮する事になります。

 

一方更始帝は、部下の内乱と赤眉軍の長安入城で二度も城を脱出し、

最期は「投降すれば長沙王にしてやる」という赤眉軍の呼びかけに応じて投降、

玉璽を劉盆子に返還して皇帝では無くなります。

その後、紆余曲折がありましたが、西暦25年12月、

後の災いを恐れた元部下の張卬(ちょうごう)が赤眉軍の

謝禄(しゃろく)を唆し殺害させました。

 

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鄧禹、敗戦の連続で負のスパイラルにハマる

鄧禹

 

西暦26年、鄧禹の軍は絶好調で敗残兵を吸収して、

その兵は百万に達しようとしていました。

鄧禹は得意絶頂でしたが、多すぎる軍勢は統率を欠き、

食糧は不足がちになっていきます。

 

そんな折、赤眉は長安の兵糧が尽きたので食を求めて西進を開始します。

鄧禹は、その隙に長安に入りますが、そこは一粒の麦さえない廃墟でした。

そこで漢中から進撃してきた延岑(えんしん)と藍田で戦いますが鄧禹は敗北します。

 

一方で鄧禹は更始帝によって漢中王とされていた劉嘉(りゅうか)を手紙で降しますが、

劉嘉の配下の李宝(りほう)を非礼という理由で斬首したので、李宝の弟が反乱を起こし、

鄧禹の腹心の耿訢(こうそ)を殺し、さらに各地で反乱を起こします。

 

そこに、食糧を得られず戻ってきた赤眉軍が鄧禹に襲い掛かり、

相次ぐ反乱と統制力不足、そして食糧欠乏から鄧禹軍の士気は低下、

赤眉軍に撃破されてしまいました。

 

鄧禹は何とか、軍を立てなおそうとしますが、一度、負のスパイラルに落ちた

軍勢を立てなおすのは至難の業、飢えに苦しみ士気が落ちた兵で赤眉に挑んでは、

無残に敗北するという事を繰り返します。

 

光武帝は、鄧禹にこれ以上征西を続けさせるのは無理と判断し、

将軍、馮異(ふうい)を交代で送り込みます。

 

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鄧禹、功を焦る余り、馮異まで巻き込んで敗北orz

鄧禹

 

西暦27年、戻る鄧禹はやってくる馮異と合流します。

しかし、諦めきれない鄧禹は馮異に連合して赤眉と戦おうと持ちかけます。

馮異は、黽池(べんち)まで来ている光武帝の精鋭と合流して、

赤眉を挟み撃ちすれば、これを撃破できるので、もう少し待ちましょうと進言。

 

ところが鄧禹は、「敗軍の将として帝と相まみえる事は耐えられない」と喰い下がり、

人の良い馮異は、これを断るにしのびなく連合して赤眉と戦い、

またしても大敗北、鄧禹は僅か二十四騎を率いて河北に逃げ延びます。

 

一方で馮異は、一度は散った兵を集めて数万の軍勢にまとめ、

赤眉軍八万を撃破するという功積を立てました。

 

鄧禹、大司徒と梁侯の印綬を返還する

鄧禹と光武帝

 

敗戦を重ねて戻った鄧禹は、自ら、大司徒と梁侯の印綬を返還します。

「私を免官にして下さい」という意思表示です。

しかし、鄧禹が一生懸命故に負のスパイラルに落ちた事を知っている光武帝は

大司徒の印は回収しましたが、梁侯の印は鄧禹に持たせました。

 

数か月の後、光武帝は鄧禹を右将軍に任命します。

西暦28年、鄧禹はかつて勝てなかった延岑を南陽に破り漢中に敗走させます。

これは、鄧禹の屈辱を晴らさせてやろうという光武帝の粋な計らい

だったかも知れません。

 

西暦37年、光武帝は、最期の敵、公孫述(こうそんじゅつ)を

蜀に撃破し天下を統一します。

鄧禹は高密侯になり、次の皇帝、明帝の教育係を仰せつかるなど、

西暦58年に死去するまで建国の功臣として重んじられます。

 

後漢演義ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

このように見ていくと、鄧禹は知略も武略も、そこまで傑出しておらず、

強いていえば公平厳正な性格が重んじられた感じです。

しかし、鄧禹には、もう一つ、大きな特徴がありました。

それは人を見る目の確かさです。

 

光武帝は、人材を登用するのに必ず鄧禹の意見を聞きました。

また鄧禹が推挙した人材は必ず採用し、その中には、賈復(かふく)、

銚期(ちょうき)、呉漢(ごかん)、寇恂(こうじゅん)という、

雲台二十八将に名を連ねる人材がいます。

 

なかでも呉漢は寡黙でPRが下手、賈復はプライドが高く、

やたら他人とイザコザを起こしました。

彼等は鄧禹が推挙しなければ、世に埋もれる事になったでしょう。

 

もうひとつ、鄧禹には安心感という目に見えない魅力がありました。

鄧禹がそこにいるだけで周囲は信頼に満たされイザコザも消えた

と言われています。

 

その鄧禹の目には見えない人を信頼させる魅力を見抜いて、

第一の功臣にした光武帝も、また非凡な人物であったと言えるでしょう。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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