師である諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)の言いつけを破り、
街亭の山頂に布陣したばかりに魏将、張郃(ちょうこう)に敗れ
北伐を失敗に導いた孔明の秘蔵っ子、馬謖幼常(ばしょく・ようじょう)。
その無残な敗戦により、Mrハイキングなどとあだ名を付けられ
すっかりギャグキャラ化した彼ですが、実は街亭で馬謖が山に登ったのは
ちゃんと彼なりの意味があった事が明らかになりました。
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この記事の目次
第一次北伐での孔明の狙いとは?
第一次北伐における孔明の狙いとは、長安を眼前にする渭水盆地に
蜀軍の拠点を造る事でした。
何と言っても秦嶺山脈を越える北伐は食糧の補給と兵の往来が困難だからです。
渭水盆地から長安は、目と鼻の先である為に、ここに拠点を確保できれば
肥沃な土地を耕して屯田も可能になりますし、長安を陥落できる確率は
大幅に上昇するのです。
もっとも、そんな事は、魏軍だって百も承知ですから、
渭水盆地に蜀軍を入れないように備えを固めていました。
長安を守備する曹真の軍勢を囮部隊で釘づけにする
しかし、兵力において、魏軍と蜀軍では開きがありました。
大将軍曹真(そうしん)は、二十万の兵力を率いているので、
十万程度の蜀軍がまともに当たったのでは、勝目はありません。
そこで孔明は陽動作戦を取ります、趙雲(ちょううん)と鄧芝(とうし)に
別働隊一万を率いさせ斜谷道から郿(び)城を攻めると宣伝を流します。
郿城とは、かつて董卓(とうたく)が築城した難攻不落の要塞で、
長安の支城の役割を果たしていました。
曹真が、孔明の宣伝を真に受けたかどうか分りませんが、
囮(おとり)であろうが、本隊であろうが、素通りさせるわけにはいきません。
こうして二十万の曹真軍と趙雲・鄧芝の軍勢は狭い道で交戦します。
狙い通り、曹真を釘づけにした孔明は、西に回り込んで祁山を陥落させます。
この衝撃は大きく、涼州では天水、南安、安定が孔明に寝返ります。
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事態を危惧した曹叡は、長安に親征して張郃を送り込む
天水、南安、安定が寝返った事は曹叡(そうえい)に衝撃を与えました。
事態を危惧した曹叡は、親征を決意して洛陽から長安に進軍して、
長安で陣頭指揮を執るようになります。
同時に伴ってきた歴戦の猛将、張郃に孔明を破るべく軍勢を与えます。
それを知った孔明は、張郃を足止めするべく、馬謖に一万の軍を与え
街亭を占領するように指示します。
街亭は狭い山道であり、少数の軍勢で張郃を食い止める事が出来ます。
孔明としては、馬謖に張郃を防がせて時間を稼ぎ、自身の本隊を、
渭水盆地まで進めるつもりでした。
そうすれば、曹真と張郃は、背後に蜀軍を抱える事になり、
必ず孔明を撃破する為に渭水盆地まで兵を戻します。
そこで、待ち構えていた孔明の本隊と追撃してきた趙雲、鄧芝の囮部隊が
曹真軍を挟んで撃滅するというシナリオだったのです。
どうして、馬謖は街亭に登ったのか?
しかし、あくまでも麓で張郃の進軍を防げと命じた馬謖は、孔明の命令を無視、
街亭の山頂に布陣して張郃に包囲されて水を断たれて大敗します。
ですが、それには、馬謖なりのちゃんとした理由があったのです。
その理由は、長安に出張ってきた曹叡を打ち倒し、一気に魏を滅ぼすという
イチかバチかの危険な賭けでした。
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馬謖は張郃を引き受ける事で孔明に長安を突かせようとした
馬謖は軍略に才があったと言われています。
実戦経験は乏しいですが、知略によって、一発逆転の戦術を考えるのは、
大得意だった事でしょう。
街亭に布陣してからしばらくすると、馬謖に長安に曹叡が親征の為に
やってきている報告がもたらされます。
洛陽では届きませんが、長安なら目と鼻の先です。
ここで、孔明の本隊が長安を攻撃して、曹叡を殺すか、捕えるかできれば、
魏は一気に動揺して分裂し内部崩壊を起こすに違いない・・
馬謖は、このように考えましたが、その邪魔になるのは張郃でした。
もし、馬謖が孔明の言いつけどおりに街亭の麓に布陣すれば、
張郃は、或る程度の所で長安に戻るか、別の進路を探るかも知れません。
それでは、張郃を釘づけにする事はかないません。
そこで馬謖は敢えて、張郃を誘う為に麓の道を棄てて、
山頂に布陣したのです。
こうして、張郃を馬謖に引きつければ、曹真は趙雲と鄧芝に釘付け、
張郃は馬謖に足止めされる事になります。
そうなれば、周囲には、フリーハンドの孔明の本隊だけが残ります。
そこで孔明は祁山から街亭を通り、長安を襲撃して曹叡を捕えて、
魏を滅ぼすというのが馬謖の計略だったのです。
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馬謖の奇策は可能だったのか?
では、馬謖の言う通りにして孔明は長安を陥落できたでしょうか?
結論から言うとまず不可能でしょう。
第一に長安は、丸裸ではなく、陳倉や雍、郿というような支城があります。
張郃は愚かではありません、出陣するにあたり、このような支城に
兵力を分けたと考えるのが自然でしょう。
そして、陳倉のような小さな城でも、何十日も費やして落せない現実を考えれば、
内応が期待できない限り、それらの支城を短期間で落すのはかなり難しいでしょう。
また、孔明の本隊が離れている間に、曹真の本隊が、趙雲・鄧芝の
囮部隊を撃破したら、彼等は漢中を制圧して、成都になだれこみます。
そうなれば、蜀はひとたまりもなく滅んでしまうのです。
時間で考えれば、曹真が囮部隊を撃破する方が、孔明が支城を抜くより
はるかに速いと考えられます。
こうして考えると、孔明が馬謖の意図を見抜いたとしても、
馬謖の思惑通りに長安に兵を進める可能性は無いと言えるのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
このように馬謖は、実戦が伴わない机上の空論の奇策を思い付き、
一度に魏を撃滅しようと考え、あえて張郃を引きつける囮となって
街亭の山頂に布陣したのです。
そこには、孔明ならば自分の意図に気付くに違いないという
独りよがりなうぬぼれもあったでしょう。
ところが、馬謖のそのような意図は後世に伝わらず、
命令に背いて山に登るという奇行だけが残った為に、
兵法読みの兵法知らず、Mrハイキングと罵倒されるように
なったのではないでしょうか?
※地図は武将の配置を説明用に配置しているだけです。
布陣の位置などは正確ではありませんのでご了承下さい。
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