麦城で最後を迎えた、劉備(りゅうび)の義弟・関羽(かんう)は壮繆(そうびょう)侯と追諡されます。その後、劉備は怒り狂い、大敗戦、夷陵の戦いを引き起こすのですが、それは兎も角として、関羽の死後、関羽の一族はどうなったのでしょうか?正史を辿って追っていきたいと思います。
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関羽と兄、関平の死後を引き継いだ関興
関羽には、関平(かんぺい)と関興(かんこう)という二人の男子がいたようです。どちらが年長とは書かれていませんが、樊城の攻略に従軍したのが関平であるという事は、関興は次男なのかも知れません。関羽と関平が非業の最期を遂げると、関家の家督は次男の関興に継がれます。ちなみに、関平が関羽の養子というのは三国志演義の創作です。そして、関索(かんさく)という人物は正史には登場しません。
関興、関羽の後を継ぐが数年で病死
この関興なる人物は、字を安国といい、かなり学問が出来る優秀な人で、諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)も目をかけていて、二十歳で侍中、中監軍になりますが、たった数年で死去してしまったようです。医療水準が低い時代とはいえ、二十歳で死去とは早すぎますが、或いは、生まれつき体が弱かったのかも知れません。
そうだからこそ、関羽は関興を従軍させず成都に置き、帝の側近く仕えるように命じたのではないでしょうか?元々、関興は文官タイプ、従順で仕事が出来る人でありその為に、孔明は引き立て安心して使ったのでしょう。
関興の後は関統が継いだ
関興の次は、子の関統(かんとう)が継いでいます。蜀漢の太祖である劉備は、一族の力でのし上がった人物ではなく、傭兵隊長として裸一貫で部下の力を借りて皇帝に昇った苦労人なので、宗族という存在がなく、関羽や張飛(ちょうひ)という仲間を宗族に擬したようで、関統は虎賁中郎将に昇進し劉禅(りゅうぜん)の娘を娶っています。二人の娘が皇后になり外戚化した張飛の一族程ではないにしても、関羽の一族も劉氏に重んじられたという事が分る逸話です。関統は、何歳まで生きたか不詳ですが、子供は無かったようです。その為に、家督は関興の庶子の関彝(かんい)が継いだようです。
関羽の一族、龐会によって皆殺しにされる
関彝については、詳しい事は何も分りません。その理由は、ほどなく魏の鍾会(しょうかい)が入ってきて、西暦263年、蜀が降伏し滅亡したからです。さらに悪い事には、この魏軍には、龐会(ほうかい)という武将がいました。彼は関羽によって処刑された龐徳(ほうとく)の子供だったのです。彼は若い頃に父を関羽に殺され、その仇に報いんと生きてきました。そして待つ事45年!とうとう、魏軍の一員として蜀を制圧した龐会は父の恨み思い知れ!とばかりに関羽の一族を滅ぼしたのです。
名前不詳だが関羽には娘がいた
関羽には、娘もいました、史実でも孫権から息子との縁談を持ちこまれ、関羽は激怒してボロクソに罵倒して断っているので実在も明らかです。ただ、名前は分りません、ゲーム等で活躍している彼女の名、関銀瓶(かんぎんぺい)は後世の創作であるようです。
民間伝承では、成都に逃れた後も、関銀瓶は関羽の仇を討ちたがり、ついには趙雲(ちょううん)に武芸を習って、諸葛亮と共に雲南の賊を討伐する手柄を立てています。皇后になってしまって履歴が残る張飛の娘達と違い経歴が良く分らないからこそ関銀瓶は空想上のヒロインとして大活躍したようです。
三国志ライターkawausoの独り言
関羽の死後、関興辺りまでは三国志演義に出るので分りますが、さらに、関統、関彝となると分らない人も多いでしょう。そして、最後には、あの龐徳の子によって皆殺しとは、三国志で、あれだけ活躍した関羽だけにその一族の末路のすさまじさに唖然とします。本日も三国志の話題をご馳走様・・
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