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張飛(ちょうひ)と言えば、桃園三兄弟の一角として漫画などで有名です。
しかし、そのイメージと言えば、謹厳実直で気難しい関羽(かんう)に比べて
短気で陽気で粗暴、無類の酒好きで酒にまつわる失敗が多いが真っすぐで嘘がない
憎めない人物として描かれます。
ですが、張飛が脳みそ筋肉武将というのは三国志演義の誇張であり
実際の張飛は長い戦歴で進化して名将へと変貌を遂げていました。
同僚を殺すような大喧嘩をして呂布を引き込んでしまう
さすがに初期の張飛は、脳みそ筋肉な大失敗をしています。
西暦196年、徐州牧の陶謙(とうけん)の遺言で徐州を引き継いでいた
劉備(りゅうび)は対立していた袁術(えんじゅつ)と戦う為に小沛に出陣し、
本拠地の下邳(かひ)は張飛に留守番させていました。
ところが、そこで張飛は曹豹(そうひょう)という下邳の相と大喧嘩をし殺害、
行政官を殺された下邳は大混乱に陥り、許耽(きょたん)という人物が、
当時劉備の客将だった呂布(りょふ)に下邳を安定させてくれるように依頼します。
そこで呂布が出陣し張飛を倒して下邳を占領、劉備は帰る拠点を失ってしまうのです。
劉備は袁術との挟み撃ちを恐れて呂布に詫びを入れ、その客将になっています。
張飛のせいで、庇(ひさし)を貸して母屋(おもや)を取られたのです。
この話は三国志演義で脚色される
どうして張飛が曹豹と喧嘩したのか原因は不明ですが、三国志演義では、
劉備の留守番中、トラブルを起こさないように禁酒を命じられた張飛が
我慢できずに酒を飲んでしまい、それを咎めた曹豹に暴力を振い、
恨みを持った曹豹が呂布を引き込んでしまう筋立てになっています。
参考文献:三国志演義
著者: 羅 貫中 出版社: 平凡社
いずれにせよ、本来、波風を立ててはいけない留守番で同僚と喧嘩し殺すとは・・
初期の張飛は脳筋武将と言われても仕方ないでしょう。
張飛反省し、兵法を勉強、殿を勤めて劉備一行を逃がす
ですが、張飛は、この失敗を糧にして行動を改めます。
西暦208年には、曹操(そうそう)の大軍に追われた劉備一行を逃がす為に、
張飛は殿(しんがり:軍の最後尾)を買って出て、二十騎で曹操の大軍を迎え撃ち
長坂橋という橋を落して、その前に陣取り曹操軍を牽制しました。
張飛は一人で万人に匹敵すると言われた猛将で、その目で睨まれた曹操軍の
騎兵は敢えて近づくものがなく、その為に劉備は逃げる時間を稼ぐ事が
出来たと言われています。
橋を落して、敵を水の中を進まざるを得なくし、それを岸で迎え撃つという
頭脳戦と胆力で万の曹操軍を押しとどめたのですから、知力20%
くらいはUPしているでしょう。
投降を拒否する敵将を心理戦で屈服させる
張飛の成長は止まりません、西暦212年、劉備は有名な蜀獲りを行い、
益州の劉璋(りゅうしょう)と事を構えますが、張飛は応援部隊として
諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)や趙雲(ちょううん)等と共に益州に入り、
次々と面白いように城を落していきます。
そして江州という所で守備隊長の厳顔(げんがん)を捕虜にします。
張飛は最初、横柄な態度で接し、
「どうして大軍が迫るのに無駄な抵抗をする!」と厳顔を詰りました。
すると厳顔は毅然として
「元はと言えば、お前達が泥棒のように我が土地に入ったのだ
わが軍には、首を斬られる将軍はあれど、降伏する将軍などいない
さあ、さっさと首を刎ねよ」と言い放ちます。
それを聞いて、張飛は怒り、即刻引き出して首を刎ねよと言いますが、
厳顔は「ぐずぐずせずに、ここで刎ねよ」と怒鳴ったので、
その男気に感心して、張飛は縄を解いて無礼を詫びました。
すると、厳顔の方でも考える所があり、張飛の誘いに乗り、
劉備の軍門に降ったのです。
怒りに任せるのではなく、敗れた敗軍の将の意気を重んじて、
その心を動かした張飛に人間的成長が窺えます。
かつて、同僚と喧嘩して相手を殺した人とは同一人物とも思えません。
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