五虎将軍として活躍していた趙子龍(ちょうしりゅう)。
彼は劉備の奥さんや劉禅をしっかりと守り、
劉備軍における忠義の将軍としてのイメージを持っている方が多いと思います。
しかし陳寿(ちんじゅ)が書いた正史三国志と裴松之(はいしょうし)が書いた三国志・注では、
趙雲の扱い方が全然違っていたことを知っていたでしょうか。
今回は趙雲の扱い方の違いを教えたいと思います。
正史三国志に登場する趙雲はたった200行ほど
正史三国志に登場する趙子龍は果たしてどのようなことが書かれているのでしょうか。
陳寿(ちんじゅ)が書いた正史三国志によると趙雲は長坂(ちょうはん)の戦いで、
阿斗(あと=後の劉禅)を救出したことと孔明率いる北伐戦の時に曹真(そうしん)軍に
敗北してしまったことしか書かれていないようです。
え??たったこれだけしか書かれていないの!?
三国無双とかで超カッコいい活躍しているのに。
と思うはじさん読者も多いと思いますが事実なんです。
しかし趙雲伝の最後に書かれている陳寿の評価の欄で趙雲をこのように評価しております。
「趙雲は前漢の高祖・劉邦(りゅうほう)に付き従って戦い抜いた
夏侯嬰(かこうえい)のような人物である」と評しております。
趙雲に似ている夏侯嬰とはどんな人?
さて夏侯嬰のような人と言われてもさっぱりわからない方が多いと思います。
そこでざっくりですが、夏侯嬰とはどんな人なのかご紹介しましょう。
夏侯嬰は前漢初代皇帝である劉邦の挙兵時代から付き従って各地の戦に参加し、
武功を立てていきます。
項羽の本拠地である彭城(ほうじょう)が奪還されたとき、
夏侯嬰は馬車に劉邦と劉邦の子供乗っけて追撃軍から逃れていきますが、
項羽軍の追撃軍に幾度か追いつかれてしまいそうになります。
そこで劉邦は自らの子供を馬車の外へ放り投げて、車体を軽くして追撃軍から逃れようとします。
しかし夏侯嬰は劉邦が捨てた子供たちを幾度も車外から拾って馬車に乗っけて走ります。
劉邦はこの夏侯嬰の行為に激怒しますが、夏侯嬰は構わず子供たちを馬車に乗っけます。
その後劉邦を乗せた夏侯嬰の馬車は追撃軍を振り切ることに成功するのです。
上記のエピソードが長坂の戦いの時の趙雲の活躍に似ていたので、
趙雲を夏侯嬰と評価したのではないのでしょうか。
裴松之が作った趙雲別伝では正史三国志と違う趙雲が・・・・
正史三国志に登場する趙雲は上記のようにさらっとしていましたが、
裴松之が書いた趙雲別伝では正史三国志と全然違う趙雲がおります。
趙雲別伝の趙雲は長坂の戦いは勿論、
漢中の戦いで曹操軍に囲まれてしまった黄忠(こうちゅう)を救出しており、
劉備から「子龍これまさに胆なり」と最大級の評価を与えられております。
また夷陵の戦い(いりょうのたたかい)が勃発する前、
劉備に堂々と正面から関羽を殺した呉へ攻撃を仕掛けるのはよくないと説きつつ
「魏を先に滅ぼせば、呉は自ずと降伏する。」と呉へ攻撃を仕掛けることの無益を説いております。
このように趙雲別伝では正史三国志とは比べ物にならない程活躍しており、
字数にするとなんと1000文字以上記載されており、
今日三國無双や小説での趙雲の活躍の原点は裴松之の三国志・注や三国志演義の趙雲子龍を
参考文献にしております
また三国志演義も裴松之の趙雲別伝を引用しており、そこから趙雲の物語が始まっていくのです。
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三国志ライター黒田レンの独り言
正史三国志に登場している趙雲が本当の趙雲の姿の可能性の方が、
高いのではないのかと考えます。
理由としては趙雲伝の最後に記されている評価です。
夏侯嬰のような働きをしていた人物とされており、
劉邦の家族を守り続けた姿が趙雲にぴったりであったのでこのような評価をしたのでは
ないのでしょうか。
それにしても正史三国志でたった200行程度しか書かれていない趙雲の姿を1000文字まで
引き伸ばした裴松之の想像力にレンは驚きです。
彼がいなければ現代の私たちが知る趙子龍は生まれてこなかったかもしれませんね。
参考文献 SB新書 三国志「その後」の真実 渡邉義浩・仙石知子著など
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