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三国志演義は、意識的に後漢の後継者を名乗る劉備(りゅうび)とその後継者である
諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)を持ちあげる目的で描かれています。
一方で実質的なライバルである曹操(そうそう)は、実物より悪く姑息で矮小化されます。
簡単に言えば、勧善懲悪劇としてデフォルメされているのです。
その三国志演義の中で、同様に矮小化された人物こそが魯粛(ろしゅく)です。
この記事の目次
三国志演義の魯粛はお人よしで優柔不断
三国志演義の魯粛は、悪人ではありませんが人畜無害の善人にされています。
西暦208年、天下三分の計を携えた孔明を伴い、呉まで連れて行き
孫・劉軍事同盟を結ぶ橋渡しになりますが、作中では終始孔明の知略に振り回され、
間抜けな役割を演じる優柔不断なお人よしです。
結局のところ、三国志演義では、孔明を引き立たせる脇役としての扱いなのです。
ところが、真実の魯粛はそうではありません、彼こそが三国志の時代の幕を
開いたと言っても過言ではない英雄なのです。
若い頃から天下大乱を察知していたクレイジーボーイ
魯粛は字を子敬(しけい)といい、臨淮郡、東城県という所の富豪の家に生まれます。
父親を早く失い、祖母と暮らしたという魯粛ですが、若い頃から施しを好み
財産を傾けては、有望な人物と交際する事をもっぱらにしていて、
また、魯粛を慕う少年達を集めて、山に行き戦争ごっこを繰り返しました。
当時、漢の世の中は乱れだしたとはいえ、本格的な混乱は起きてはいないので
世間の人々には、魯粛の行動は極めて奇異なものに映りました。
「ああ、名門の魯家も衰えたものだ、あのような狂児が産まれるとは」
そう、魯粛は少年時代からクレイジーボーイと呼ばれていたのです。
生涯の友になる周瑜に囷を丸ごとプレゼント
魯粛が26歳の頃、周瑜(しゅうゆ)という人物が近くの居巣の県長になり、
わざわざ数百名の随行員を引き連れてあいさつにきました。
もちろん、ただあいさつにきたわけではなく、貧しい県に物資を融通して欲しい
という陳情つきでした、魯家は有名な富豪だったからです。
すると、魯粛は2つある囷(きん)の一つをドーンとプレゼントしました。
そこには、三千斛という莫大な穀物が満載に積まれていたのです。
ちなみに囷とは円筒形の穀物倉庫でサイロに似ています。
周瑜は初対面の自分にポーンと囷の一つを与えてしまう魯粛の度量に感服し
すっかり打ち解けて仲良くなります。
ジョーカー袁術に家来になるように命じられ、周瑜と脱出
魯粛の人望は揚州一帯に知れ渡り、当時、この地を支配していた袁術(えんじゅつ)は、
魯粛を東城県の県長に任命します。
しかし、袁術の暴政に失望した魯粛は、早々に県長を辞めて周瑜の元へ行き、
やがて周瑜の誘いで、数百名の人間を引き連れて、当時、孫策(そんさく)が
平定しつつあった江東へと渡りました。
その途中、行かせまいとする袁術の追手の騎馬兵がやってきますが、
魯粛は、馬上で弓を引き、盾を何枚も矢で貫いてみせて威嚇します。
「まだお分りにならんのか!すでに世は乱世であり、秩序は乱れた!
あなた方は、手柄を立てても褒美がなく、私を見逃しても罪は無い
であるのに、役人の惰性で、わざわざ私を捕えようとして命を失いたいか!
私は私、諸君は諸君だ、もう勝手にさせてくれたまえ」
追手の騎馬隊は、魯粛に威圧されると共に、その言い分に頷き戻っていきました。
アドバイスを求める孫権に、一発アウトの提言をぶちかます!
その後、紆余曲折がありましたが、西暦200年頃、魯粛は周瑜の手引きで、
呉の三代目の君主である孫権(そんけん)と会見する事になります。
最初は新卒の何十人の配下との懇談でしたが、孫権は魯粛の非凡さを見抜き、
残りの数十人は帰宅させてから、再び魯粛を呼び出してサシで飲み出します。
「魯先生、私は父や兄の仕事を継いで、混乱している漢王朝の復興に尽力したいと
考えております、先生は非才な私をどのように補佐してくれますか?」
すると魯粛は、平然として、こんな事を言います。
「そうですな、すでに後漢王朝は、曹操という極悪人がついているので、
救うなどというのは、そもそも無理で御座います。
さりとて、今のあなたの軍事力では曹操を除くのは不可能です。
ですから、当面は江南・江東の地盤を固めて国力を高めて事態を静観し
曹操が、各地の平定で忙しい隙を突いて独立して皇帝を名乗りなさい。
それが、右往左往しないですむベストな判断です」
この発言に孫権の表情は凍りつきました。
当時、漢王朝は、曹操の傀儡とはいえ、存続しており、それを無視して
皇帝を名乗れなどというのは、冗談でも言えないタブーだったのです。
「いやいや、、先生、、私は地方の田舎豪族に過ぎません、そんな大それた事は・・
ただもう、、漢王朝のお役に立てるのを願うばかりで」
孫権はお茶を濁しますが、魯粛の発言は呉の重臣の張昭(ちょうしょう)にも届いていて、
彼は魯粛の発言を不敬であるとして罷免を求めました。
孫権はそれを宥めて魯粛を庇いますが、流石にしばらく表で使う事が出来ず
魯粛は8年間程、政治的には干される事になります。
赤壁の戦い、前夜
西暦208年、荊州を領有していた劉表(りゅうひょう)が病死、それを知った魯粛は
弔問の使者として襄陽に向かいますが、その途中、夏口で曹操が荊州を陥れたという
情報を得ます。
「くるべき時がきたか、、これで曹操の最大の敵は、我が呉だけになった
これは、急いで体制を整えないといかん」
魯粛は行き先を変更して、曹操に追われ長坂へ逃れていた劉備と面会します。
劉備は、長い間、劉表の客将として対曹操の要として活動していたのです。
ここで魯粛は曹操に食われない為に、劉備と孫権が同盟を結んで曹操に対抗する事を
提案し、他に生き残る術がない劉備も賛成、魯粛は劉備の軍師の孔明と共に
呉に取って返す事になりました。
孫権の時代となり干された周瑜と起死回生の大ばくちに出る
呉に帰ると、果たせるかな曹操は孫権に無条件降伏か開戦か?を迫っていました。
華北を平定し、巨大な軍事力を持つ曹操に呉の家臣達の意見は降伏に傾いています。
魯粛は味方を得る為に盟友の周瑜を尋ねます、呉の水軍を率いる周瑜ですが、
孫策の死後は、孫権政権の家臣達と合わず冷や飯を食べていた最中です。
「ここで、呉が降伏すれば、残るは益州の劉璋(りゅうしょう)と
漢中の張魯(ちょうろ)くらいのもの劉璋の意気地なしは、恫喝されれば
降伏するでしょうし、そうなれば張魯も一人で抵抗などしますまい・・
あとは曹操の天下を待つばかり、我々は名を残す事も叶いません。
ここは何としても、呉を戦わせ曹操の天下統一を阻止しなくては!」
周瑜は魯粛の提案に乗り、開戦論を展開する事になります。
決め手はトイレでの説得!孫権開戦を決意
呉の宮廷は、重臣の張昭を筆頭とする、曹操への降伏派と周瑜のような、
開戦派に分れて、激しく議論をする事になります。
開戦派は数こそ少ないものの気迫において、降伏派を圧倒していましたが、
全体として会議は膠着状態に陥り、重苦しい時間が流れます。
魯粛は何も言わず、議論を聞いていましたが、孫権が議論を一時休止し
トイレに立つと、すかさずその後を追いました。
「殿!よくお聞き下さい、降伏派の顔ぶれをご覧なされ、皆、昔からの名門であり、
曹操が主人になっても、登用され使ってもらえる人間ばかりではないですか?
私とて、揚州では名門の部類、曹操に降伏すれば、それなりの地位につけます。
しかし、殿はどうでしょう?畏れながら、あなたの家は成り上がりモノ、
元々の地位は、私より低いものでは御座いませんか?
これで降伏すれば、あなたは父上の時代から積み上げた全てをみすみす捨て、
元の卑しい身分に逆戻りなのですぞ!
降伏派の頭にあるのは保身だけ、あなたは、あなたの判断で結論を出すべきです!」
こうして、魯粛はおしっこしている孫権の前でまくし立てました。
孫権は、魯粛の意見を聞くと、がっくりと肩を落して言いました。
「私は正直、降伏を唱える連中の腰ぬけぶりに落胆しておった・・
汝の言う通りだ、私は私の意志で結論を出す、孫家の子として曹操ごときの
風下に立って、惨めな人生を送りたくない」
この瞬間、孫権は曹操との戦いを決意し、それは赤壁の戦いへと突き進みます。
結果は、孫権&劉備連合軍の勝利、こうして曹操の天下統一の夢は砕かれたのです。
参考文献:正史 三国志
著者: 井波 律子/陳 寿/裴 松之/小南 一郎/今鷹 真 出版社: 筑摩書房
【シミルボン】三国志を産みだしたのは魯粛だった!クレイジーと言われた豪傑の人生
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