三国志の時代にも可愛い巫女が存在した!?李傕や劉禅もハマった巫女事情

2017年4月19日


 

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巫女というと、神社にいる白衣に赤い袴という巫女装束を着た

綺麗な女性やかわいらしい女の子をイメージします。

巫女は本来、巫女舞(神子舞)や祈祷、占い等を通して、

神託を受け、対象者に神のお告げを伝えることを生業とします。

これらは神の意志を人々に伝えるための行いであり、神の行いのお手伝いというところでしょうか。

現在では、それが派生し、神社で神事のお手伝いとして、御神籤を売ったり客寄せをしたりしています。

元の意味に立ち返って考えれば、占い等を通じて人々に”道”を指し示すようなことを行います。

ところが、こうしたことは現代では、人を騙す手段や詐欺の手口等に使われてしまう場合もあります。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国志における巫女

 

三国時代でも、巫女はいました。当時の人々は現代よりも信心深く、

巫女の行いは神の思召しと信じていました。

さて、この思召しはどのように三国時代を生きた者達の運命を変えたのでしょうか。

今回は、三国志における巫女の行った偉業(?)を御紹介します。

 

李傕の巫女

 

董卓(とうたく)は献帝を帝位につけることで、朝廷を支配していました。

ところが、呂布(りょふ)に裏切られ菫卓(とうたく)は殺されてしまいました。

その後、部下であった李傕(りかく)郭汜(かくし)が呂布(りょふ)を追い出すと、

朝廷内で好き放題やっていました。

さて、この李傕(りかく)は非常に信心深く、いつも邪道妖術の類を好んでいました。

ようするに占い好きな乙女のような感じでした。

陣中にはいつも巫女を置いていました。

そして、太鼓を打ち鳴らし、巫女に神降しの儀式を行わせておりました。

 

 

彼の部下に賈詡(かく)という者がおり、これをいつも諫めていましたが、聞く耳を持ちませんでした。

こうして、李傕(りかく)は朝廷で横暴と占いの限りを尽くしていました。

別に占いするのは構いませんが、横暴は勘弁してほしいですね。

 

占い結果が反乱を生む!

 

賈詡(かく)は李傕(りかく)の部下でしたが、帝への忠義を忘れていませんでした。

賈詡(かく)「陛下、李傕(りかく)を重要な官職につけてください。

それだけで、李傕(りかく)軍は瓦解します。」

帝は訳が分かりませんでしたが、李傕(りかく)を大司馬に任じました。

李傕(りかく)「これこそ巫女が神降しして祈祷してくれたたまものだ!」

李傕(りかく)は大いに喜び、巫女に恩賞を与えます。

ところが、生死を賭して戦った部下には何一つ与えませんでした。

楊奉(ようほう)「我々は命を張ったのに、

何の音沙汰も無いとは…、我々の命は巫女の祈りにも劣るというのか!」

こうして、楊奉(ようほう)が反旗を翻しました。

巫女の祈りで幸運を呼び込むはずが、逆に争いを生んでしまったようです。

 

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李楽と韓暹の巫女

 

李楽(りがく)と韓暹(かんせん)の巫女が登場したのも

丁度李傕(りかく)の巫女が現われたのと同時期でした。

反旗を翻した楊奉(ようほう)は、李傕(りかく)と郭汜(かくし)から帝を救い出すことに成功しました。

この時、楊奉(ようほう)達は、李楽(りがく)、韓暹(かんせん)、

胡才(こさい)の三将軍を呼び寄せました。

援軍として呼ばれた彼らでしたが、李傕(りかく)と郭汜(かくし)らによって打ちのめされ、

胡才(こさい)は乱戦で死亡してしまいました。

一行は追撃されないように河を渡り、何とか逃げ延びましたが、

泊まる宿も無く、帝と皇后は芋ぶきの荒ら屋を寝床としました。

 

巫女を利用して権力を!

 

さて、李楽(りがく)と韓暹(かんせん)はいずれもならず者のヤクザといった類の者でした。

彼らは、巫女達を初めとして無頼の徒、奴僕、

下人等二百余名を重役として取り立ててもらう様に推挙したのです。

国家の大事が迫り、時間の無い中で帝が重臣と今後の策を練るという状況で、

私利私欲のために自分の手の者に権威を持たせようというのでした。

帝「空気読めよ・・・。」

多人数ということもあり、印を刻むのも間に合わないので、錐で木片に印を刻むといった状況でした。

 

 

結局、李楽(りがく)と韓暹(かんせん)も李傕(りかく)や郭汜(かくし)と何も変わりませんでした。

今回、巫女達は悪くありませんが、「巫女」という存在そのものが悪事に利用されています。

 

言わずと知れた劉禅の巫女

 

三国志の終盤、劉備(りゅうび)や諸葛亮(しょかつりょう)、

関羽(かんう)を筆頭とした五虎大将軍も倒れ、

蜀が徐々に魏に押され始めます。諸葛亮(しょかつりょう)の後継者として

姜維(きょうい)が北伐を繰り返す中、魏の侵攻が始まります。

姜維(きょうい)は急いで劉禅(りゅうぜん)に「蜀を守る術」をしたため上奏文を奉りました。

しかし、劉禅(りゅうぜん)の側近である黄皓(こうこう)は劉禅(りゅうぜん)に言います。

黄皓(こうこう)「これは姜維(きょうい)が功名を挙げようとしたものです。

大袈裟に言っているだけでしょう。

それでも気になるならば、私が評判の良い巫女を知っていますので占ってもらってはどうでしょう。」

なぜか占いを勧める黄皓(こうこう)でした。

 

蜀の命運は・・・

 

劉禅(りゅうぜん)は、祭壇を整えさせると巫女を迎え入れ、玉座に座らせました。

劉禅(りゅうぜん)が祈り終わると、巫女が不意に立ちあがって髪を振り乱しながら、

裸足でそこら中を跳ね回り、祭壇の周りを回り始めます。

劉禅(りゅうぜん)「これはいったいどうしたことじゃ。」

黄皓(こうこう)「神降しの儀によって、神が乗り移ったのです。陛下、お人払いを。」

劉禅(りゅうぜん)は近侍の者達を退らせ、祈念しました。すると、

巫女「我こそは西川の守り神なり。陛下はただ泰平を楽しんでおれば良い。

数年後には魏の国も陛下の手に帰するであろう。何も憂うることはない」

と叫ぶとそのままばったりと倒れてしまいました。劉禅(りゅうぜん)はこれを聞いて喜び、

巫女にたっぷりと褒美を与えると、言いつけどおり、毎日宮中で酒宴に耽った。

姜維(きょうい)が立て続けに急を告げる上奏分を奉ったが、

いずれも黄皓(こうこう)が隠してしまいました。

 

占いの結果・・・

 

江油城を守る将、馬邈(ばばく)は、漢中が奪われたと聞き、

備えを固めたが街道筋に兵を出したのみで、剣閣を守る姜維軍を頼みにして用心を怠っていました。

ある日のことでした。その日も、

馬邈(ばばく)は軍勢の調練を終えるとすぐに家に戻り、酒を飲んでいた。

そこへ「魏軍大将鄧艾(とうがい)が二千の兵を率いて城内に攻めてきました」

との報告を受け、慌てて役所の庭先に平伏して降参しました。あっという間の降伏劇でした。

成都ではその報告を受けた劉禅(りゅうぜん)は黄皓(こうこう)に相談します。

黄皓(こうこう)「そんなものはただの流言でしょう、また巫女を呼んで尋ねてみましょう。」

しかし、巫女とは連絡が取れず、彼女はどこかへ消え失せていました。

諸方から危急を告げる上奏文が絶え間なく届けられます。

最終的に、成都に到着した魏軍のために蜀は降伏しました。

その頃、巫女はたっぷり貰った報酬で、贅沢三昧していると考えられます。

 

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三国志ライターFMの独り言

 

劉禅(りゅうぜん)は恐らく「だまされた」ことぐらいは気づいている・・・かもしれません。

対する李傕(りかく)は、幸運を呼び込むはずの巫女のせいで失態を演じた上に、

そのことにすら気づいていません。

いずれにしても、彼らは三国志時代に巫女に扮した唯の詐欺師に騙されてしまった事例として、

有名なものです。巫女が皆そうであったとはいえませんが、

一部にそうした詐欺まがいをする者はいたと考えられます。

ただ単に詐欺に合った程度では無く、それらが歴史を変えているという大きな詐欺でもあります。

劉禅(りゅうぜん)は結果的に蜀を守れなかったと思いますが、蜀の寿命を縮めました。

李傕(りかく)は巫女のために、部下の反乱を招き、結果帝に逃げられてしまいました。

李傕(りかく)はそのうち誰かに討たれていたと思われますが、いずれにしてもその寿命を縮めました。

くれぐれも皆さまも詐欺には気をつけましょう。

 

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三国志は、大昔の出来事ですが、物語をいろいろな視点や切り口で見ていくと、新しくて面白い発見があるのが好きです。 人物像や対人関係、出来事、時代背景、逸話等々、古い話とはいえ、学ぶべきところはたくさんあります。 埃をかぶせておくにはもったいない、賢人たちの誇りがあります。

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