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賊徒から三国志の英雄に出世した武将がこんなにいる!

2017年4月28日


 

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ハイ、それでは、三国志の世界をいろいろな角度から掘り下げていく

「ろひもと理穂の三国志・清水の次郎長」のコーナーです。

 

 

三国志には袁術や袁紹のように先祖代々偉い役人だったという

エリート街道まっしぐらという人もいれば、

屯田民から身を興した鄧艾のような人物もいます。

そして中には、もとは盗賊なんていう脛に傷を持つものもいます。

時は戦乱です。

群雄は少しでも腕の立つ人材を欲していましたから素性は問わなかったのでしょう。

さて、賊徒出身の三国志の英雄って誰でしょうか。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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リーン♪リーン♪のこの方

 

賊徒出身で猛将といえば呉の甘寧(かんねい)です。

もとは江湖一帯に名を轟かせた「錦帆賊」の頭領です。

賊徒はみな鈴を身に付けていたそうです。なんだかワンピースの七武海みたいですね。

強さは認められていましたが、劉表(りゅうひょう)には重用はされていません。

黄祖(こうそ)に仕えて孫権と戦い、名将・凌操(りょうそう)を倒しています。

それでも出世できず、やがて孫権に降ります。

その後は曹操と争った「合肥の戦い」でも活躍し、将軍位まで出世しています。

賊徒出身らしく殺人を好んだそうで、同僚たちから好かれていません。

ちょっと異質な存在だったようですね。

 

関帝廟にも祀られています

 

三国志演義に登場する架空の人物ですが、

人気があるため関羽の関帝廟に従者として祀られています。

神として崇められているのです。

それがもとは黄巾の賊徒であった周倉(しゅうそう)です。

水練が巧みで、樊城の戦いでは小船を敵将・龐徳の船にぶつけて転覆させ、捕らえています。

その後、関羽が捕らえられて首を斬られたことを確認すると、城壁から飛び降りて自害しました。

ちなみに一度、趙雲と一騎打ちをしたことがありましたが、あっさりと打ち負かされています。

 

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百万の頭領

 

兵の数では他を圧倒するのが「黒山賊」の頭領、張燕(ちょうえん)です。

飛燕とも呼ばれました。部下の数なんと百万。まさに一国の主ですね。

 

 

ワンピースで言うと四皇レベルです。

後漢朝廷が何度も討伐の兵を送り込みましたが倒せませんでした。

平和を望んだ張燕の方から帰順し、支配権を認められています。

 

 

袁紹(えんしょう)の客将をしていた呂布(りょふ)に敗れ組織は解体。

正式に降伏した先は曹操だったそうです。そのときに平北将軍の位についています。

 

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とてつもない長寿の武将

 

正史では記述がありませんが、三国志演義ではもとは黄巾の賊徒であったと記されています。

ちょうど関羽が曹操のもとを離れるタイミングです。世にいう「過五関斬六将」のときですね。

それが廖化(りょうか)です。

味方のひとりが関羽が守る劉備の妻子に無礼を働いたので、

廖化はこれを斬り捨て、関羽に仕えたいと申し出ました。

廖化は関羽が死んだ後も引き続き蜀の武将として活躍し、蜀が滅亡するまで生き続けます。

西暦200年から西暦263年までの期間です。

仮に関羽に出会ったのが17歳の頃だったとすると、蜀が滅んだときには80歳です。

蜀の武将の中では最も長命かもしれません。

 

賊徒から車騎将軍への異例の出世

 

瞬く間に出世したのが、黄巾の残党で「白波賊」の頭領、楊奉(ようほう)です。

曹操から楊奉の軍勢は精鋭であるとまで賞賛されています。

長安を脱出する献帝を助けて洛陽まで護衛し、その功績から車騎将軍に任命されています。

しかし政敵である曹操に騙され、楊奉は袁術のもとへ落ち延びていきました。

最終的には宴席の場で劉備に刺殺されたといいます。

 

三国志ライター ろひもと理穂の独り言

 

他にもまだまだいそうですね。こう見ると賊徒出身でも活躍していますし、出世もしています。

・呉・蜀にそれぞれいるのも面白いですね。

しかし、現代ではさすがに受け入れられそうにありません。特に甘寧がいたら怖いです。

戦争が多かったこの時代だからこそニーズがあったのでしょう。

 

皆さんはどうお考えですか。

 

 

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ろひもと理穂

ろひもと理穂

三国志は北方謙三先生の作品が一番好きです。 自分でも袁術主役で小説を執筆しています。ぜひこちらも気軽に読んでください! 好きな歴史人物: 曹操、蒲生氏郷

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