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司馬懿、蒋済が呉に関羽を挟撃するように誘う
しかし、司馬懿(しばい)、蒋済(しょうせい)は、これを押し留めて、
呉の孫権と結んで関羽を背後から攻撃させれば良いと進言します。
曹操は策を採用し、孫権に長江以南を与える事を条件に同盟を締結。
さらに、樊城には、徐晃(じょこう)を援軍に派遣しました。
こうして、何も知らない関羽は、魏と呉により上下から包囲されます。
呂蒙は関羽を油断させるべく、病気と称して荊州を去り、
代わりに無名の陸遜(りくそん)を派遣します。
陸遜は関羽を油断させる為に、関羽を讃えて自身が謙(へりくだ)る手紙を送ります。
関羽はそれを読んで陸遜を侮り、江陵、公安に残していた自軍を引き抜いて、
樊城に送ってしまいました。
陸遜と呂蒙、縻芳と士仁を寝返らせる
それを見た孫権は、呂蒙と陸遜に関羽攻撃を命じます。
呂蒙は、南郡の縻芳(びほう)と公安の士仁(しじん)が関羽と仲が悪い事を知り、
手紙を送り寝返りを呼びかけます。
二人はあっさりと寝返り応じ、関羽は根拠地、零陵と公安を失います。
その頃、関羽は樊城の包囲を続けていましたが、城は全く落ちませんでした。
さらに、徐晃より、魏と呉が同盟を結び関羽は挟撃されている事が城内に知らされ、
城内の士気は益々高まり、補給が乏しくなった関羽は樊城の包囲を解きます。
そこで、関羽に自軍の補給部隊が呉軍に襲われているという知らせが届きます。
関羽は驚き、襄陽の包囲も解いて呂蒙に真偽を確認する使者を派遣しました。
すると呂蒙は、関羽の使者に、すでに零陵と公安は陥落し、
捕虜と家族は呉が手厚く面倒を見ていると告げました。
使者は、関羽の陣に戻ると、すでに江陵、公安が落ちている事と、
家族が呉によって保護されている事を兵士達に伝えます。
関羽は、デタラメであると噂を否定しますが、兵士達の士気の低下は止まらず
毎日のように兵が脱走していきます。
関羽、逃亡するも捕まり、臨沮で斬首される・・
関羽は僅かな手勢を引き連れて当陽まで来ると、孫権が江陵に迫っている事を知り
西の麦(ばく)城に拠ります、そこへ孫権が降伏を勧告してきたので、
関羽は応じるフリをして夜陰に紛れて逃亡しますが、臨沮(りんそ)で捕えられ、
息子の関平(かんぺい)と共に斬首されました。
このようにして、荊州南郡は、完全に呉の手中に入る事になります。
孫権は、劉備の恨みが自分に向かう事を恐れ、関羽の首を曹操に送ります。
その前後、西暦220年、曹操も65歳の波乱の生涯を閉じました。
三国志の前半で、物語を引っ張った群雄が次々と死んでいきます。
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劉備、関羽の弔い合戦を行う決意を固める
関羽の死が劉備に伝えられると、劉備は激怒します。
しかし、同じ頃、曹操が死に、曹丕(そうひ)が後継者となり後漢王朝を滅ぼして
魏を建国したので、劉備は後漢を継ぐとして、皇帝に即位して蜀漢を建国します。
ですが、皇帝の位に就いた劉備をさらなる悲劇が襲いました。
関羽の弔い合戦の準備をしていた張飛(ちょうひ)が日頃虐待していた部下に叛かれ
寝首を斬られてしまったのです。
しかも、張飛を殺した、張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)は
呉に投降していました。
三兄弟の二人までも失った劉備の怒りと悲しみは深く、孔明(こうめい)や
趙雲(ちょううん)が諌めても全く意見を聞かず、孫権が諸葛瑾を派遣して、
寝返った張達と范彊を捕まえて渡し、和睦を請うても、劉備は険しい表情で
「今更、何を詫びる?首を洗って待っていろと孫権に伝えよ!」
と言うばかりでした。
孫権は劉備の報復を恐れ、再び、曹丕に接近して同盟を結び蜀と敵対します。
劉備、自ら親征、破竹の快進撃を続ける
西暦221年の7月、劉備は自ら軍を帥いて四万の兵で討伐軍を編成します。
そして、長江を遡り、呉将の陸議(りくぎ)、李異(りい)、劉阿(りゅうあ)が
巫(ふ)城、秭帰(しき)城に駐屯しているのを襲撃、蜀将、呉班(ごはん)、
馮習(ふうしゅう)が両城を撃破し陸議、李異、劉阿は退却しました。
蜀軍は秭帰城に駐屯し、厳しい冬をやり過ごす事にします。
孫権は、破竹の進撃を続ける劉備に対して、いまだ大きな功績がない陸遜を当てます。
しかし、陸遜は作戦らしい作戦を見せず、少しの部隊を劉備にぶつけては、
退却させるという逐次、戦力投入を繰り返し配下の将は不満を募らせました。
年が明けると、劉備は、秭帰城から出撃し呉班と陳式(ちんしき)らに
水軍を指揮させ夷陵へ先行、劉備は陸上から進軍し気候が温暖になると、
さらに東へ前線を拡大させます。
劉備は馬良(ばりょう)を武陵に送り込み、異民族の武陵蛮の沙摩柯(しゃまか)を
扇動して、各地で掠奪を行わせ、陸遜の後方を攪乱します。
鎮北将軍の黄権(こうけん)は、あまりにも蜀軍が深入りし過ぎていると考え
劉備を後方へ下げ自身が前線を指揮すると進言しますが、関羽の仇討ちに燃え、
自ら孫権の首を斬ると息巻いている劉備は聞かず、黄権を長江の北岸に留めると、
全軍で長江を渡って水軍を引き上げさせ、孫恒(そんかん)が守る夷道城を包囲します。
陸遜、孫恒に援軍を出さず、呉将が猛反発
潘璋(はんしょう)、宋謙(そうけん)、韓当(かんとう)、徐盛(じょせい)、
鮮于丹(せんうたん)というような呉の将達は、陸遜に対して、
孫恒を救うように進言しますが、陸遜は孫恒なら持ちこたえると断言、
全く援軍を出しませんでした。
元々、陸遜を侮っていた彼等は、この決定に猛反発、
「陸伯言は脳無しだ!もう呉はおしまいだ」と叫んで命令に叛くようになります。
陸遜は、それでも孫権に救援を求めず、譲り受けた孫権の剣を抜いて、
「私の命令は殿の命令、逆らう者は斬る」と声を荒げてようやく
諸将を抑える事が出来ました。
我慢し続けていた陸遜ですが、ようやく、進撃に進撃を続けていた
蜀軍に息切れの様子が見られます。
桃園三兄弟の別れ 関羽の死から夷陵の戦いまでを辿る
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