この故事は固い友情で結ばれている事を指し、
三国志では孫策と周喩の二人の絆の強さを表していることで有名な言葉です。
しかし孫呉には孫策との絆の強さが周喩以上で結ばれた人材がいたことをご存知でしょうか。
その名を太史慈(たいしじ)字を子義(しぎ)と言います。
孫策と太史慈がどれほど固い絆で結ばれていたのかをご紹介したいと思います。
関連記事:太史慈(たいしじ)ってどんな人?孫策とマジで一騎打ちした勇将
この記事の目次
偵察に出る
太史慈は揚州(ようしゅう)の牧・劉繇(りゅうよう)に仕える武将でした。
袁術(えんじゅつ)から兵力を与えられて揚州に孫策が軍勢を引き連れて、
攻撃を仕掛けてきます。
孫策の勢いは凄まじく劉繇が統治していた勢力圏の城は次々と陥落させられ、
孫策迎撃に出撃した劉繇軍の軍勢は各地で敗北してしまいます。
そんな中、 劉繇は孫策の軍勢がどこに駐屯しているかを知るため、
太史慈に数騎の騎馬隊を率いさせて偵察へ向かわせることにします。
歴戦の猛者を従えた孫策と遭遇
太史慈は騎馬隊を率いて孫策の陣営を偵察するべく出陣しますが、
孫策の陣営を偵察している途中で、敵の総大将であった孫策と遭遇することに。
孫策の周りには数十騎の騎馬隊や孫堅(そんけん)時代からの宿将であり、
後年の孫呉軍団の中核を成すことになる黄蓋(こうがい)や韓当(かんとう)などの
歴戦の猛者を周りに引き連れておりました。
普通であれば率いている騎馬隊も少ないことから、
ここは一旦引き返して劉繇の元へ報告に行くのが常套手段です。
しかし太史慈はそこらへんの武将とは違う決断を即座に下すのです。
三国志の武将に特化したデータベース「はじめての三国志メモリーズ」を開始しました
太史慈が下した決断とは
太史慈は孫策や孫策の周りに居た歴戦の猛者を見てもひるむことなく部下を引き連れて、
孫策の元へ直進していきます。
孫策は一騎で自らの前に立ちふさがってきた敵将を見てすぐに槍を持って、
壮絶な一騎打ちを行うのです。
孫策と太史慈は打ち合うこと数十合に渡りますが、
互いの武技は伯仲しており中々決着をつけることができませんでした。
そんな中激闘を続けること数十分後、
孫策はついに太史慈が使っていた手戟を奪うことに成功。
だが太史慈も孫策に負けておらず孫策が頭に装着していた兜を奪うことになり、
両者はにらみ合いの膠着状態を続けることになります。
この両者の均衡状態を破ったのは太史慈の従者として一緒に来ていた者が、
援軍を引き連れてきたことによって破られることになります。
こうして孫策と太史慈の一騎打ちは決着を見ることなく終了することになります。
劉繇と別れて孫策と戦う
劉繇はその後孫策軍に本拠地を陥落されてしまい逃亡することになります。
太史慈も劉繇に付き従って逃亡するのですが、
途中で劉繇と別れて自ら丹陽(たんよう)の太守を自称して独立。
太史慈は孫策軍と戦うために各地で敗北して散り散りになっていた
元劉繇軍をかき集めます。
更に太史慈は江南の異民族である山越(さんえつ)族とも協力することで、
数万の軍勢を終結させることに成功。
こうして大軍を集めることに成功した太史慈は孫策軍と激闘を繰り広げることになるのです。
孫策に捕まってしまう
太史慈の軍勢と孫策軍は数ヶ月に渡って激闘を繰り広げますが、
ついに孫策自ら軍勢を率いて太史慈を討伐する戦に参加。
孫策が自ら兵を率いて太史慈討伐に参加したことがきっかけで、
各地で太史慈の軍勢は敗北してしまいます。
そして太史慈も孫策の捕虜となってしまうのです。
孫策のラブコールに負けて配下となる
孫策は太史慈を捕虜にしたことを知ると急いで太史慈の体を縛っていた縄を解かせます。
孫策は太史慈を配下に加えるため、自ら太史慈の元へ出向いて会見を申込みます。
太史慈は孫策が自ら会見を申し込んできたことに驚きますが。
孫策との会見を行うことにします。
孫策は太史慈へ「今後我が軍はどうするのがベストであると思いますか。」と訪ねます。
すると太史慈は「敗軍の将軍が意見を申すことなどありません」と質問に答えることを拒否。
しかし孫策は「昔、韓信が趙を平定した際に趙の将軍であった李左車の意見を受け入れ、
今後の方針について決めた故事も残っているではないか。
この故事を引用して私はあなたに今後の方針について質問しているのですが、
なぜお答えいただけないのでしょうか。」と述べます。
すると太史慈は孫策のラブコールに心を射抜かれてしまい
「分かりました。今後の方針について少しばかり意見を述べたいと思います。
元劉繇軍が孫策殿に敗北したため、バラバラに散らばっている状態です。
このまま元劉繇軍を放置プレイにしていれば、
まとめることが困難な状態になってしまうでしょう。
そこで私が元劉繇軍を集結させてあなたの軍勢に帰参させようと思います。
いかがでしょうか。」と進言。
孫策は自らの膝をうって「この進言を私は待っていたのだ。
太史慈殿軍勢をまとめるまでにどのくらいの時間が必要であろうか。」と尋ねます。
すると太史慈は「明日の昼までには軍勢を再集結させて、
孫策殿の軍に加える事ができると思います。」と答えます。
孫策は太史慈に馬を貸して劉繇の軍勢を終結させるため解き放つことにします。
孫策の家臣は「また敵対してくるのではないのでしょうか。」と
孫策の寛大な対応に反対します。
しかし孫策は「太史慈殿は必ず軍勢を率いて戻ってくるであろう。
その理由は太史慈が信義に厚い武将であるからで、
私を裏切るような真似は絶対にしないはずだ。」と確信を持って語るのでした。
さて孫策の確信は正しかったのでしょうか。
信義に厚い武将・太史慈帰参
太史慈は孫策の元を離れて各地散らばっていた兵士たちに呼びかけて、
元劉繇軍を次々と軍勢を吸収していくことになります。
孫策は太史慈が裏切ることなく必ず戻ってくると信じていたため、
宴会の準備を行うとともに日時計を置いて太史慈が戻ってくる時間を確かめておりました。
そして孫策と太史慈が約束した時刻になると大軍を引き連れ、
大軍の先頭には太史慈が勢いよく進んできます。
この姿を見た孫策や孫策の武将達は大声で歓声を挙げて、
太史慈の帰参を喜ぶのでした。
こうして太史慈は自らの信義を貶めることなく孫策の元へ帰参すると
孫策の武将として仕えることになり、各地の戦場でその名を轟かせていくことになるのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
周喩と孫策の結びつきを超えるほどの絆で結ばれている太史慈をご紹介しました。
太史慈は信義に厚い武将としても有名でありましたが、
武技にも優れており蜀の五虎将軍である黄忠(こうちゅう)に匹敵するほどの
弓の達人でもありました。
太史慈の弓がどれほど優れていたのかを示すエピソードとして、
江南を制圧した孫策に賊徒が反旗を翻します。
孫策は太史慈に軍勢を与えて討伐するように命令を下します。
太史慈は賊徒が砦にこもって抵抗していたため包囲してじわじわと攻めていくことにします。
太史慈が賊徒の砦を包囲していたある日、
ある賊徒が楼閣の上に登って梁に手をかけて孫策の悪口を言い放っておりました。
太史慈は賊徒が楼閣の梁に手をかけているところをめがけて弓矢を放ちます、
すると悪口を言っていた賊徒の手が弓矢に突き刺さって、
手が梁に貼り付けにされた状態になっていたのです。
このように太史慈は弓矢で狙った獲物を逃がすことなく撃ち抜くことに成功しており、
ガンダム00に登場するロックオン・ストラトスのようなスナイパーとしてもその名を広めて、
活躍していたのです。
参考文献 ちくま文芸文庫 正史三国志呉書 小南一郎著など
関連記事:ゴルゴ13もびっくり!三国志のスナイパー武将・龐徳・太史慈・呂布
関連記事:歴史上の最強の弓の使い手は誰?太史慈?李広?源為朝?立花宗茂?
—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—