あの覇王曹操(そうそう)が、最も愛し自身の後継者にしようとまで思った
曹沖(そうちゅう)、夭折した彼には、象の重さを図ったなど、天才逸話があります。
しかし、同時代に曹沖に匹敵する天才少年がいた事は、余り知られていません。
今回は天才に産まれたばかりに、曹操に殺されてしまう事になった
天才少年、周不疑(しゅうふぎ)の事を紹介致します。
この記事の目次
荊州零陵郡重安の人 周不疑
周不疑は、194年頃、荊州霊陵郡重安に産まれました。
劉表(りゅうひょう)に仕えた劉先(りゅうせん)の甥にあたります。
彼は、幼少の頃から、神童の誉が高いので叔父の劉先は将来を嘱望し、
同郡で学者の劉巴(りゅうは)に甥を師事させようとしました。
ところが、劉巴は、周不疑を引見して話すなり嘆息して言いました。
「私は、昔、荊北に遊学いたしましたが、自分の名さえ満足に書けません。
どうして、光り輝く鳳凰の雛の才能を、雀に過ぎない私に、
ブチ壊させようとなさるのでしょうか、ひたすら恥ずかしい限りです」
こうして、頑なに、師になる事を拒否したそうです。
劉巴は、後に益州に向かい、その知略は孔明(こうめい)も敵わないと脱帽した程ですが
その劉巴に恥ずかしいと思わせる程に周不疑は天才だったのです。
曹操、周不疑に初めて会った日に娘を与えようとする
西暦204年、周不疑の天才ぶりを聞いた曹操が彼を招きました。
当時、周不疑は10歳ですが、曹操は、面会した直後に、その天才を認め、
自分の娘を与えようとしたと言われています。
これは破格の待遇で、つまり周不疑を曹家に加え眷族にしようというのです。
しかし、周不疑は、これを丁重に辞退します、ならばと曹操は、
彼を議郎に取り立てて側に置こうとしますが、周不疑はこれも辞退しました。
白い雀が出た時に即興で見事な詩を書く
同じ頃、都に白い雀が出現しました、これは瑞兆というので、
群臣はそれぞれ、白雀で漢詩を読みました。
曹操が、「周不疑にも詠ませよ」と、紙と墨を与えると、周不疑は、
即興でさらさらと筆を走らせ、見事な漢詩を書いたそうです。
その漢詩は伝わっていませんが、鄴で漢詩サークル建安七子を主催していた
曹操が、ますます感心したのは、言うまでもありません。
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207年 烏桓討伐で柳城攻略の十の策略を提示する
その後、周不疑は、曹操の烏桓討伐に従い従軍します。
曹操軍は、柳城を包囲しますが、なかなか落とせなかったので、
戦場の様子を図面に書いて、参謀達に意見を求めると
周不疑が進み出て、十通りの柳城攻略の計略を出しました。
曹操が試しに、そのうちの一つを採用すると、
柳城はあっという間に陥落してしまったそうです。
しかし、この話は、周不疑が13歳に過ぎないなど、従軍するには、
幼すぎる事から、創作ではないかと言われています。
ただ、例えば、曹丕(そうひ)は典論という著作の中で、自身は少年時代から
従軍していると記録していて、身内は別な可能性もあるので、
もし、曹操が周不疑を身内扱いしていたなら、有り得る話だと思います。
いずれにせよ、周不疑が尋常ではない軍才を持っていた事を
物語る逸話だと言えるでしょうね。
曹沖が13歳で死去すると曹操の憎しみが周不疑に向かう
曹操は、息子で溺愛する曹沖が神童と呼ばれる天才だったので、
年も近い周不疑とは良い仲間になるだろうと考えていましたが、
曹沖は、13歳で病死してしまいます。
それが、周不疑には、不運の始まりとなりました。
曹操は曹沖が死んでから、曹沖に匹敵する才能を持つ周不疑を
疎ましく思うようになったからです。
やがて、それは憎悪に変化し、曹操は刺客を放って周不疑を殺そうとします。
曹丕(そうひ)はそれを知って、止めさせようとしますが、曹操は、
「あの人物は、お前ごときに制御できる人物ではないぞ!」と叱り、
周不疑はとうとう暗殺されてしまいました、17歳だったそうです。
三国志ライターkawausoの独り言
曹沖に匹敵する天才少年だった為に、
17歳で殺される羽目になった、周不疑について、紹介しました。
どうも曹操の個人的な恨みで殺された感じの周不疑ですが、
実際に、その才能に恐れを抱いていて、曹沖が死んで自分も死ねば、
周不疑が、魏の屋台骨を揺るがすかも知れないという冷徹な計算もあったのでしょう。
惜しむらくは、周不疑の天才ぶりを表す具体的な逸話がない事ですね
実際には、どういう人物だったのでしょうか?
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