【三国志 魏の歴史事件簿】一体何が起きたのか!?曹芳の時代に起きた事件に迫る!!


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曹操(そうそう)曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)の時代は、

はじめての三国志でも多く取り上げています。

しかし魏国後半の皇帝達である曹芳(そうほう)

曹髦(そうぼう)曹奐(そうかん)の時代を知っている方は、

私たちのサイトでも取り上げられていなく、知っている人も少ないと思います。

そこで今回は、魏国後半の皇帝の一人曹芳の時代に何が起きたのか。

時系列で超ざっくりとご紹介していきたいと思います。

 

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景初三年(239年):曹叡の跡を継いで曹芳が皇帝に就任

 

曹芳は病で亡くなった曹叡の跡を継いで皇帝の位に就任。

曹爽(そうそう)司馬懿(しばい)は曹叡の遺言によって皇帝の補佐役となり、

魏国を支えることになります。


正始二年(241年):呉軍の全面攻撃を打ち破った「芍陂の役」

 

呉は朱然(しゅぜん)、全琮(ぜんそう)らに命じて魏の領土へ攻撃を開始。

全琮率いる呉軍は王凌(おうりょう)率いる魏軍の奮戦によって撤退させます。

しかし朱然軍は全琮が撤退した後も荊州の樊城(はんじょう)を包囲。

魏の朝廷では樊城の包囲を打開する会議を開きますが、

いい案が出ませんでした。

そんな中司馬懿は「自ら軍勢を率いて呉軍を蹴散らしてくる」と会議で曹芳へ進言。

曹芳は司馬懿の発言を採用し、軍勢を与えて呉軍を蹴散らしてくるよう命令します。

朱然は司馬懿が到着すると樊城の包囲を解いて撤退。

司馬懿は、朱然軍が撤退したことを知ると猛追撃をして大勝利します。

魏軍は呉軍が侵攻してきた全戦線で勝利し、

この戦いを「芍陂(しゃくひ)の役」と後に呼ぶことになります。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

 

正始四年(243年):海の向こうのスーパーアイドルから使者がくる

 

正始四年(243年)。

この年は海の向こうのスーパーアイドル・卑弥呼(ひみこ)の使者・難升米(なしめ)が、

魏の朝廷へ献上品を届けられます。

曹芳はアイドル・卑弥呼からの献上品を見て大喜びしたとかしないとか。

 

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正始五年(244年):無謀な戦い「興勢の役」

 

正始五年(244年)。

曹爽は曹芳へ蜀漢討伐を要請。

司馬懿は曹爽の提案に猛反対しますが、

曹爽の意見が多数を占めた事で、蜀漢討伐が行われることに。

曹爽は総大将となって魏の大軍を率いて蜀漢へ侵攻を開始。

しかし王平率いる蜀漢軍が魏軍に徹底抗戦を行ったため、

進軍がはかどらず停滞してしまいます。

曹爽の臣下は蜀漢軍が費禕の援軍が来た事を理由に曹爽へ撤退するべきだと進言。

曹爽は臣下の意見を聞いて、軍勢を撤退させることにします。

この蜀漢と魏の戦いは後年「興勢の役」と呼ばれます。


嘉平元年(249年):司馬懿と曹爽の決戦「高平陵の変」

 

司馬仲達と曹爽は皇帝・曹芳が就任した際を仲良く補佐していました。

だが曹爽は側近からの進言を受けて司馬懿を権力の座から引きずり落とします。

司馬懿は曹爽が色々と難癖をつけて権力を奪おうと知りながら、

何もしませんでした。

しかし司馬懿は表面下で息子達を使っていつでも反撃する準備をしていました。

そして嘉平元年(249年)。

曹爽は皇帝に付き従って曹叡のお墓参りへ向かいます。

 

 

司馬懿は曹爽達が皇帝に付き従って墓参りに行った事を知りクーデター決行し、

皇帝へ曹爽達を家に帰らせるよう進言。

皇帝・曹芳は司馬懿の進言を採用して、曹爽達を家に帰らせてしまいます。

こうして司馬懿が起こしたクーデター事件は皇帝から怒られることなく、

終わります。

さて曹爽や曹爽に付き従っていた側近達は全て司馬懿に処刑されることになり、

司馬懿主導の政権が誕生することになります。

司馬懿が起こしたクーデター事件を「高平陵(こうへいりょう)の政変」と

呼ばれることになります。

 

関連記事:衝撃!高平陵の変の黒幕は司馬師だった!


  

 

嘉平三年(251年):王凌のクーデター

 

太尉の王凌は現政権の皇帝・曹芳を皇帝の位から下ろして、

違う皇帝を就任させようと考え、クーデター計画を考えていました。

しかし司馬懿は王凌が計画していたクーデター計画を知り、

すぐさま王凌を逮捕。

司馬懿は王凌を処刑してこのクーデター計画を未然に防ぎます。

だが魏の政権を支え続けてきた功臣・司馬懿もこの年に亡くなってしまうのでした。

司馬仲達の跡を継いだのは息子の司馬師です。

 

嘉平四年(252年):諸葛恪の軍勢に大敗北「東興の戦い」

 

孫権(そんけん)が亡くなり孫亮(そんりょう)が呉の皇帝として君臨。

諸葛恪は東興(とうこう)に堤防を作り、近くに大きな城を建築します。

魏は東興近くの堤防と新しく築城された城を破壊するため、

大軍で攻撃を開始。

しかし魏は諸葛恪(しょかつかく)の奮戦によって大敗北してしまいます。

この戦いを「東興の戦い(とうこうのたたかい)」と後に呼ばれることになります。

 

関連記事:呉の諸葛恪が目指した政治は孔明のパクリだった!?

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嘉平五年(253年):孫呉と蜀漢の攻撃を打ち破る!!

 

嘉平五年(253年)。

諸葛恪率いる孫呉の軍勢は合肥新城を包囲。

そして蜀漢は諸葛恪の軍勢に呼応して魏の領土へ侵攻してきます。

曹芳は司馬師に命じて孫呉と蜀漢の軍勢を防ぐように命令。

司馬師は側近からのアドバイスを聞いて、

合肥新城の守備をしている毌丘倹(かんきゅうけん)へ、

防御に徹するように命令します。

そして姜維率いる蜀漢軍には、陳泰(ちんたい)郭淮(かくわい)を援軍として派遣。

司馬師の対応によって孫呉軍は合肥新城が陥落しないと分かり、

撤退していきます。

そして姜維率いる蜀漢軍は陳泰、郭淮の援軍の到来を知って、

戦わずに撤退するのでした。

司馬師の冷静な対応によって二カ国の連動作戦を打ち破るのでした。

 

嘉平六年(254年):司馬師暗殺計画発覚そして・・・・。

 

嘉平六年(254年)。

張緝(ちょうしゅう)は魏の権力を握っている司馬師を暗殺して、

夏侯玄(かこうげん)を大将軍にする計画を練ります。

この計画は司馬師が事前に知ったため失敗に終わってしまいます。

また夏侯玄、張緝ら司馬師暗殺計画に加担した人々は処刑されたり、

左遷させられてしまいます。

そして曹芳は司馬師の逆鱗に触れて、

皇帝の位から追放させられてしまうのでした。

 

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三国志ライター黒田レンの独り言

 

魏の皇帝・曹芳の時代を時系列ごとにご紹介しました。

曹芳自身は有能な皇帝ではありませんでしたが、

色々な事件が起きていたことがお分かりになったと思います。

そして大まかな事件をざっくりと時系ごとに、

知ることで三国志後半の時代をより深く知ることができたのではないのでしょうか。

 

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