中国の歴史では、弁舌に長けた者が自身の理論を以て他者を説く、
といった逸話が数多くあります。
その中でも、三国時代では蜀の秦宓(しんふく)と呉の張温(ちょうおん)の舌戦は
正史に残され演義にも記載されているという有名なエピソードです。
今回は、蜀の秦宓(しんふく)と呉の張温(ちょうおん)が繰り広げた問答をご紹介します。
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秦宓と張温
秦宓 子勅(しんふく しちょく)は、蜀の学士です。
当時、魏や呉との戦いで、劉備(りゅうび)が没し、
孔明(こうめい)は魏に対抗するため呉と再び手を結ぼうと考えました。
蜀の使者、鄧芝(とうし)は呉の王、孫権(そんけん)を説得し、
関羽(かんう)のことで亀裂ができた蜀と呉の関係をとりなしました。
孫権(そんけん)は返礼のために、張温 恵恕(ちょうおん けいじょ)を遣わし、
誼を結んでくるように命じました。
蜀に着くと終始へりくだる蜀の面々に対して、
張温(ちょうおん)は横柄な態度をとるようになります。
そんなある時、彼の送迎の酒宴の席に秦宓(しんふく)が訪れます。
問答のお題:天とはどんなもの?
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秦宓(しんふく)は学士として、「上は天分、下は地理に至るまであらゆることを学んだ」
といいました。張温(ちょうおん)は、これを鼻で笑います。
張温(ちょうおん)「これは大言を吐かれますな。
されば、”天”について御伺いしたい、天に頭はありますか?」
秦宓(しんふく)「ございます」
張温(ちょうおん)「どの方角に?」
秦宓(しんふく)「西にございます。『詩経』に『乃ち眷(かえり)み西に顧みて』
なる句があるため、頭は西でございます。」
秦宓(しんふく)は、書物の内容を引用して、答えました。
現代人がこれを聞くと、
「そもそも、そんな書物の内容が正しいの?
まず、本の内容が事実と合致するか示さなきゃいけなくない?」
とか、反論したくなりますが、ここでは著名な書物に書かれていること、
すなわち「誰もが知っているべき事実」で反論したことに意義があります。
著名な書は周知の事実とみなされます。
現代でいえば、ある種の言葉遊びというか諧謔のようなものです。
波動の時代を生きた先人たちから学ぶ『ビジネス三国志』
問:天とは具体的にどんなもの?
張温(ちょうおん)の質問は続きます。
張温(ちょうおん)「天に耳はありますか?」
秦宓(しんふく)「ございます。『詩経』に『鶴九皐(奥深い穴)に鳴きて、
声天に聞こゆ』とございます。耳がなければ、聞くに聞けません。」
張温(ちょうおん)「天に足はありますか?」
秦宓(しんふく)「ございます。『詩経』に『天歩艱難なるに』とございます。
艱難な歩みとあれば、足がなくては歩けません。」
張温(ちょうおん)は次々と問い、秦宓(しんふく)は流暢に返答します。
秦宓の意図とは・・・
ここまでをまとめると、秦宓(しんふく)の知る"天”には
「頭」と「耳」と「足」があるようです。なんだかナゾナゾ見たいですね。
張温(ちょうおん)の意地悪質問は続きます。
張温(ちょうおん)「では、天に姓はありますか?」
秦宓(しんふく)「もちろん、ございます。」
張温(ちょうおん)「ほう、それは初耳だ。何という姓でござるのかな。」
秦宓(しんふく)「劉でございます。」
張温(ちょうおん)「なぜそうと分かります?」
秦宓(しんふく)「天子の姓が劉でござるゆえ、分かるではございませんか?」
後漢の帝、献帝(けんてい)の姓名は、劉協(りゅうきょう)でした。つまり帝の姓は『劉』でした。
となると、劉備(りゅうび)も天と同姓ということとなります。
この流れでいえば、現状で劉備(りゅうび)の血筋を持つ劉禅(りゅうぜん)こそが
『天』という流れになってしまいます。
張温(ちょうおん)がそれを感じ取ると、
張温(ちょうおん)「この益州は西の方角だが、日は東から生まれるものでござる
(日は東呉から昇るので、呉こそ天に近しいという意味)。」
秦宓(しんふく)「日は東から生まれるとは言え、
西に没するのでござる(天下は最終的に、西蜀に帰するという意味)。」
秦宓(しんふく)の返答は終始、立板に水を流すが如く流暢で、
満座の者は悉く舌を巻いていました。
遂には張温(ちょうおん)は口を噤んでしまいました。
決着
押し黙る張温(ちょうおん)に、今度は秦宓(しんふく)が尋ねました。
秦宓(しんふく)「昔、混沌が分れ、陰陽が二分され軽く澄んだものは浮かんで天となり、
重く濁ったものは下に凝り固まって地となったそうです。
書物には『共工氏(古代中国神話に登場する神)が戦いに敗れ頭を不周山に打ち付け、
天の柱が折れ、地の一方が欠けて天は西北に傾き、地は東南に没した』と書かれています。
天は軽く浮かんでいるのに何故西北に傾くのであろうか?
軽く澄んだもの以外のものとは、どんな物でござろうか?」
なぜ西北は上に、つまりは天に傾くのか?と問うことで、
秦宓(しんふく)は蜀を持ち上げています。
張温(ちょうおん)は返答に詰まり席から滑り下りました。
弁舌戦の後
さて、これまで横柄な態度をとっていた張温(ちょうおん)でしたが、
彼はへりくだる蜀の者達と誼を結ぶことにやや不安を感じていたのでした。
弱い奴を味方にしても嬉しくないですよね。
ところが、彼は問答後、こう言いました。
張温(ちょうおん)「蜀の俊傑の多さに感心し蜀と誼を結ぶ不安が一気に解消しました。」
一連の流れから、孔明(こうめい)は張温(ちょうおん)に恥を掻かせてはならないと思い、
孔明(こうめい)「貴公は国家を安んずるに大計を承知のお方、
口先の遊戯にかかずらうことはござりますまい。」
と取りなしたので、張温(ちょうおん)はその言葉の意味に気付き礼を述べました。
孔明(こうめい)は再び鄧芝(とうし)を答礼の使者として
張温(ちょうおん)と同道するように命じました。
これより呉と蜀は末永く誼を結ぶこととなりました。
三国志ライターF Mの独り言
秦宓(しんふく)が繰り広げた問答は史実の内容そのままであり、
三国志演義でもそのまま採用されています。
三国時代の、魏、呉、蜀がにらみ合う状態では、他の国をうまく利用しなければならず、
特に勢力的に魏に劣る蜀は呉を味方につけなければ対抗できなかったでしょう。
そうした意味では、秦宓(しんふく)の弁舌は国家間の力関係をも揺るがすほどのモノだったと言えます。
それほどの弁論術であったからこそ、秦宓(しんふく)の問答は史実に刻み込まれたのでしょう。
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