【疑問】どうして徐州人は曹操の支配を受け入れたのか?


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曹操(そうそう)にとって最大の悪名である徐州大虐殺(じょしゅうだいぎゃくさつ)、その規模については諸説あるものの

少なくとも数万人が殺されたとされ、悪名がついた曹操は後に荊州を領有する時にも

荊州人が難民となって逃げだす事態を引き起こしました。

ところが、曹操によって肉親や恋人を殺され、激しい恨みを持っていたはずの徐州人は

呂布(りょふ)が除かれ、劉備(りゅうび)が曹操に敗れて遁走した西暦200年以降、その支配に服しています。

一体どうして、徐州人は曹操の支配下に服したのでしょうか?

 

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徐州人の曹操への恨みを伝える荀彧の言葉

荀彧

 

徐州人がどれほど曹操の殺戮を恨んでいたのか?

それを窺わせる言葉が魏志荀彧伝(ぎしじゅんいくでん)にあります。

 

前に徐州を討った時、威罰(いばつ)を実行しておりその子弟は父兄の恥をおもい

必ず人々は自ら守り、(くだ)る心とて無く、これを破る事ができても

なお所有は出来ますまい。

 

威罰とは曹操の大虐殺を婉曲(えんきょく)に表現したものですが、つまり、、

あれほどの大殺戮をやったので、徐州人は曹操を恨み肉親の恥を(そそ)ごうとし

必ず城に籠って戦い降伏などせず、城を陥落させても服従させられず

軍勢が徐州を離れれば、必ず(そむ)くでしょうと言っているのです。

 

荀彧の発言は正鵠(せいこく)を射たものであり、後に徐州人は呂布が入れば呂布に付き、

劉備が徐州を奪回しようとすれば劉備に付いています。

とにかく反曹操であれば、誰でもいいという感じであり、後に昌豨(しょうき)

東海で叛いた時も臧覇(ぞうは)于禁(うきん)の二人掛かりでも攻略できず、

さらに夏侯淵(かこうえん)を加えてようやく制圧した程でした。

昌豨

 

昌豨が戦上手なのはもちろんですが、反曹の色が濃い徐州人が、

陰に陽に昌豨に協力し、于禁や臧覇、夏侯淵には非協力的であった

その可能性は非常に高いと思われます。


曹操はいかにして徐州を統治したか?

曹操孟徳(モータン)

 

では、曹操は自身を恨んでいる徐州人をどう統治したのでしょうか?

一つはっきりしているのは、曹操は徐州を直轄地(ちょっかつち)にしてはいない事です。

曹操が目をつけたのは、陶謙(とうけん)時代から半独立の存在で青州と徐州を往来していた

アウトロー勢力である臧覇や孫観(そんかん)呉敦(ごとん)尹礼(いんれい)、昌豨でした。

臧覇

 

曹操は徐州を支配すると、瑯邪郡(ろうやぐん)東海郡(とうかいぐん)から

利城郡(りじょうぐん)昌慮郡(しょうろぐん)東莞郡(とうかんぐん)を分離し青州の北海郡からは

城陽郡を分離して臧覇達に統治を任せました。

 

分離した四郡はいずれも青州との州境であり中原とは文化を異にし、

黄巾賊の暴れまわった統治の至難な土地でもありました。

曹操は、臧覇や昌豨に自由な統治を任せたので、

こちらの四郡は半独立王国と化します。

 

曹操は広陵太守を務めた陳登(ちんとう)汝南(じょなん)の辺境にいた李通(りつう)にも

臧覇達と同様、自由な裁量権を与えています。

 

陳登に至っては伏波将軍(ふくはしょうぐん)として揚州の攻略まで企て、

孫策(そんさく)もこれを排除しようと考えていたそうですから、

明らかに曹軍の一太守の立場を超えてしまっています。

 

徐州の統治について曹操は直接支配をせず、徐州や青州ゆかりの

実力者に広範な裁量権を与えて独立国化させる事で間接統治し

徐州人の曹操アレルギーを緩和しようと企てていたのでしょう。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの  

それでも起きた反乱

 

曹操が間接統治に徹した徐州ですが、僅かながら反乱の記録があります。

それは、呉敦が太守に任命された利城で黄初六年225年に蔡方(さいほう)唐咨(とうし)が叛いて

郡城に立て籠りますが、刺史呂虔(りょけん)王淩(おうりょう)任福(じんふく)段昭(だんしょう)によって鎮圧されます。

諸葛瑾

 

敗れた唐咨は呉の孫権を頼りますが、実は呉には、徐州出身者、諸葛瑾(しょかつきん)歩隲(ほしつ)

厳畯(げんしゅん)徐盛(じょせい)等がいて徐州閥を形成していて、徐州奪還を悲願としていました。

つまり唐咨は思いつきのやぶれかぶれで呉に下ったのではなく、

孫呉の徐州閥の手先として利城で反乱を図った可能性があります。

 

呉における徐州閥の力は強力であり、孫権(そんけん)も気をつかわないといけませんでした。

だからこそ孫権が209年に劉備の上表で得た地位は、車騎将軍・徐州牧なのです。

生涯、自分の安全が脅かされない限り曹操と事を構えたがらなかった孫権が

ポーズとしても徐州牧を拝命した事は、徐州閥の念願、

孫権

 

「いつか曹操から故郷を取り返して下さい」という気持ちに

配慮したものなのでしょう。

 

唐咨も最初から呉の徐州閥と連携し、同郷人として反乱を起こしたのであって

そうであればこそ、唐咨は呉で左将軍にまで昇進し列侯となり、

持節を受ける程に出世したと考えられます。

彼は仕える陣営こそ違えど、徐州閥として故郷奪還を念願としたのです。


徐州人が曹操の支配を受け入れた理由 まとめ

曹操孟徳

 

1曹操は自分が憎まれている事を知っていて、徐州の支配は、臧覇、呉敦、

尹礼、昌豨、陳登のような徐州の人材に任せ、かなり広範な裁量権を与え

半独立国のような間接統治にして徐州人の反曹感情に配慮した。

 

2それでも曹魏の統治は完全ではなく、昌豨が東海で叛いたり、

利城では225年に唐咨が叛いて失敗し呉に亡命している。

呉での出世のスピードから見て、唐咨は孫呉の徐州閥、諸葛瑾や徐盛、

歩隲、厳畯などと近い関係であった様子が見受けられる。

これも徐州虐殺を逃れた徐州人の反曹の動きの一つと言える。


  

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso

 

以上、曹操が徐州大虐殺を引き起こしたにも関わらず、

徐州人を統治できた理由を解説してみました。

君主論を書いたマキァヴェッリも支配地を安定統治する方法として

在来の諸侯をそのまま土着させ間接統治する事を提案しています。

ニッコロ・マキャヴェッリ

 

いかに黒幕が曹操である事を徐州人が理解していても、

在来諸侯を矢面にし、姿を見せない曹操に反発するのは大変なので、

勢いとして曹操の政策は功を奏したと言えるでしょう。

 

ただ、徐州人もそれに嬉々として従ったわけでもなく、

反曹の反乱には協力したり、孫呉に逃れた徐州の名士たちは、

最後まで徐州の奪還を孫権に期待したりしていた事実も見逃せません。

 

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