錦馬超には仲間と呼べる人達がいたの?

2018年4月24日


 

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馬超

 

涼州の馬超( きんばちょう)と呼ばれ、蜀の五虎将軍の一人・馬超。

馬超は呂布をイメージさせるような雰囲気をしていたそうです。

 

三国志の英雄・曹操(そうそう)が馬超を見たときのイメージをこのように残しています。

「馬超は白粉をはたいたような顔で紅をさしたような唇をしている。

また腰は細く、肩幅も広い。人を圧倒するような雄姿を持っている」と言っています。

この部分を見れば三国志最強の将軍・呂布(りょふ)を連想させるような雰囲気を、

馬超が持っていたのではないのでしょうか。

 

また馬超は呂布に似ている所はかなりの強さを持ち、武力においても申し分ない実力の持ち主でした。

その証左に三国志演義では関羽(かんう)張飛(ちょうひ)などと同じく五虎将軍に任命されています。

更に馬超が曹操に反旗を翻した時、涼州各地の豪族が彼に味方します。

この事から馬超が人望を持った人物だったことがわかります。

 

武に秀で、人望もある馬超には仲間と呼べる人がいたのでしょうか。

今回は馬超の仲間についてご紹介したいともいます。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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武においては張飛や許褚に匹敵する馬超!!そんな彼には仲間と呼べる人達がいたの??

馬超

 

三国志演義の馬超は潼関の戦いが行われた時、曹操親衛隊の隊長・許褚(きょちょ)と一騎打ちを行います。

上半身裸になった馬超は許褚と凄まじい一騎打ちを行いますが、決着が着くことなく撤退していきます。

 

また馬超は劉備(りゅうび)軍の仲間になる前、劉備の義弟・張飛とも一騎打ちを行っています。

この戦いも両者実力が拮抗していたせいで、決着をつけることができませんでした。

武においては最強に近い実力を持っている馬超には、仲間と呼べる人がいたのでしょうか。

 

馬超の仲間たちその1:馬超唯一の肉親・馬岱

曹操と韓遂

 

馬超は父親の馬騰(ばとう)や弟たちを曹操に殺害されてしまいます。

また涼州を占拠された時には自分の奥さんや息子も殺されてしまいます。

このため馬超には肉親と呼べる人達が居なくなってしまいます。

 

しかし唯一馬超の肉親で馬超の仲間の一人に数えることが出来ると思います。

馬超の唯一の肉親の名前は馬岱(ばたい)と言います。

正史三国志ではほとんど記載のないかわいそうな人物ですが、

馬超と一緒に潼関(どうかん)の戦いで戦い、その後馬超に従って各地で戦った歴戦の武将です。

馬超

 

馬超は亡くなる前劉備へ

「私の肉親は曹操に殺害され、馬岱しか残っていません。馬岱に私の家を引き継がせてください

とお願いしています。

この事からわかるように馬超が気を許した仲間の内の一人と言えるのではないのでしょうか。

 

君主論

 

馬超と仲間たちその2:馬超と一緒に戦った勇将・龐徳

馬超と龐徳

 

三国志演義では曹操に仕え、関羽を討ち取るため、柩を引っ張って戦場へ向っていった龐徳(ほうとく)

そんな龐徳も曹操に仕える前は馬超に仕えていました。

龐徳の武も馬超に匹敵するものでした。

 

龐徳は馬超と一緒に袁家の武将・郭援(かくえん)討伐に参加し、郭援を討ち取っています。

他にも龐徳は涼州の反乱軍討伐戦で抜群の功績を挙げ、異民族討伐戦でも必ず勲功を挙げています。

そんな龐徳ですが馬超に従い潼関の戦いに参加。

 

しかしこの戦いは馬超軍の敗北に終わります。

馬超は敗走し、龐徳も一緒に馬超に従って逃亡します。

その後龐徳は馬超に従って涼州各地で曹操軍と戦いますが、

占領した冀城の反乱に敗北したため馬超と一緒に漢中へ逃亡。

 

馬超が参加した戦にはほとんど参加した龐徳。

龐徳も馬超の戦友であり仲間と言える存在だと言えるでしょう

   

三国志ライター黒田レンの独り言

黒田レン

 

馬超には仲間と呼べる人は少なかったと思います。

しかし馬超が心から深く信頼できる仲間は馬岱や龐徳など少なからずいたように思えます。

蒼天航路の馬超には心を許した仲間がいました。

 

関中の豪族で馬玩(ばがん)と呼ばれる人物です。

馬玩は潼関の戦いで馬超のアドバイザー的な役割をし、

最終決戦の時には馬超を逃がすため自ら曹操軍に突っ込んでいき、討ち死にしてしまう人ですが、

彼も馬超の仲間の一人と言えることが出来るのではないのでしょうか。

【参考文献】
ちくま学芸文庫 正史三国志蜀書など

 

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