酒乱君主孫権、呉の大黒柱と言われた孫権ですが、出ると負ける戦下手で知られるように、独断専行した時は、大抵判断が間違う凡君臭溢れる人です。初期の呉の隆盛は、孫権が我を抑えて重臣の意見に従った事で達成されますが流石に後半になると、元々強い我が出てきて、時々赤っ恥をかいています。
今回は、陸遜相手にドヤり、老害を晒したケースを紹介しましょう。
この記事の目次
陸遜の進言を一蹴する孫権
西暦226年、魏の初代皇帝文帝、曹丕が死去します。それを知った孫権は、これを契機に魏が崩壊に向かうのではないかと期待し陸遜に対して、魏の敵情を視察して意見を寄こすように命じます。陸遜はしばらくして上表してきましたが、その内容は孫権の期待を裏切ります。
それによると、孫権の期待に反し曹叡は刑罰を緩くして税金を下げ、役人は忠義で手堅い人だけを用いたので、魏の人民は、曹丕の時代よりも曹叡に懐いているというものでした。孫権は、曹丕の死を契機に魏の人々が続々と国境を越えて呉に押し寄せて魏は崩壊するに違いないという甘い期待を持っていたので、陸遜の上表が、すこぶる不満でした。
その不満を誰かに話したくなったのか、孫権は諸葛瑾を呼び出して、陸遜への反論をぶちまけたのです。
曹叡が名君?冗談はよし子ちゃん
そもそも、曹操の所業というのは、殺戮が少々過激で、それと人の骨肉を離間させたことが欠点であって、諸将を統率するリーダーシップにおいては、古来より曹操に並ぶ人間は稀であったと言えよう。その曹操に曹丕が及ばないのは、誰もが認める事であろう曹丕は40近くなって曹操を継いでそうなのだから若輩の曹叡がそれに及ばないのは当たり前である、冗談はよし子ちゃんだ!
まず、孫権は、このようにブチまけてから自分の予想を話します。
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曹叡が民に小恵を施すのは自分に自信がない表われ
第一に、曹叡が税を軽くさせて刑罰を緩くしているのが善政というのがオカシイ
これは曹丕が死んだばかりで、曹叡に求心力がなく民の心が離れる事を恐れて
あえて、本心を覆い隠して民に迎合しているだけだ。
そうしないと酷政に苦しむ人民が大挙して呉に雪崩込むからで真心ではない。
ただその場しのぎに過ぎず、そうして自分の心を安定させているのだ。
取り繕った表面だけを見て、それで魏が纏まっているなどとどうして言える?
陸遜は、魏の国情を深く探る事を怠っていると言えよう。
文人や宗室に頼り自分の政治が出来るものか!
次に孫権の批判は、曹叡を補佐して、政治を行っている陳羣と曹真の攻撃へと向かっていきます。
聴けば、曹叡は陳長文、曹子丹を政治の補佐にしているという事だが、
陳羣などというのは、ただの文人集団のリーダーに過ぎず曹真は曹叡の宗室だ。
そんな連中でどうして、雄才虎略を駆使して猛者揃いの諸将を抑えられよう。
よいか、国家というのは君主が強大な権力で群臣を押さえつけて、
その逞しい野望を抑えないと、たちまち君主を疎んじるものだ。
張耳と陳余は、お互いに刎頸の交わりを結んでいたが、自分達の権勢が増すと
不和になり、最後にはお互いに傷つけあった。
これは、張耳と陳余ばかりにあるのではなく、世の理というものだ。
世の中は、一人の君主が威令により欲望の多い群臣を上手く統御しないと
治まるものではないのだ。
どうやら、孫権、強力なリーダーシップなしに国を治めるのは、不可能であると言いたいようです。
陳羣等が背かなかったのは曹操の力である
そもそも、陳羣のような文官が騒乱を起こさないで仕えているのは、
曹操が強力なリーダーシップで、その頭を押さえていたからである。
あの連中は、曹操を恐れて、小賢しい謀略を弄する事なく、
それで僅かな才能を魏の隆盛の為に使ったに過ぎない。
曹操の後を継いだ曹丕は、即位した時には、不惑の年に近かったし
昔から曹操のやり方を見て、そのやり方に習い恩恵を与えて懐柔した。
その為に引き続き陳羣等も叛く事が出来ず、渋々従ったのだろう。
しかし、曹叡のような若年ではそれは無理無理である。
あの幼少な君主は、部下の為に東奔西走しているのが実態だからだ。
やがて、軽んじられるようになり、部下のおべんちゃらに振り回され
君主の威信が低下すれば群臣たちは、それぞれ党派を造って
お互いに争うようになるだろう。
そのような状況では、魏が長久に栄えるなどとは言えまい?
どうあっても、曹叡にリーダーシップがないので、魏の滅亡はカウントダウンだと孫権は言いたいようです。
孫権ドヤる!陸遜は計略に長けるが社会を見るに浅い
私が、このように断言するのは歴史の感覚に棹を差しているからだ。
古来より、刑罰と恩賞を与える権限がある人間が複数存在して、
天下が乱れなかった試しはないのである。
こうして国家は乱れ、強い者は弱きを虐げ弱きは国外に救いを求める。
かくして、国内は混乱して滅亡への道を歩む事になるのだ。
子瑜よ!君はただ耳をそばだてて、これを記憶に留めておくがいい。
陸遜は計略には長けているが、国家を観察する見識は浅い
ああ、言っちゃいました、聞いておけ諸葛瑾、証人になれよ。今に魏が崩壊し、魏の人民が救いを求めて大挙して呉に押し寄せ、陸遜の上表が間違いである事が明らかになるぞ、というわけですが実際の魏は曹叡の時代にも着々と強化され、蜀の北伐も跳ね返し、いよいよ、呉の太刀打ちできない強国へと成長していきます。1800年を過ぎてみれば、孫権がドヤった分だけ、かなりの赤っ恥な状況分析になってしまいました。不見識は孫権の方だったのです。
孫権はどうして状況判断を誤ったのか?
もっともらしく誤った状況分析をして赤っ恥を晒した孫権ですが、どうして判断を誤ったのでしょうか?それは、呉と魏の政治体制が異なる事が大きな要因でした。
魏は曹操が興した時代には、豪族連合の性質を残していましたが、曹丕の時代になると官僚機構が整備され、君主と家臣の分限が厳密に区別されるようになっていきます。昇進や降格も君主の好き嫌いではなく法律に従って行われて行き豪族は官僚化し、統治権は皇帝の所有物になりました。もはや、曹叡は曹操や曹丕の時代のように、威光を振りかざさずとも与えられた職務を淡々とこなせば、それで良くなったのです。
逆に呉は、三国の中で一番豪族連合政権の色が濃い政権であり君主はどこまでも強い存在でないといけませんでした。孫権は生まれ落ちた呉の政治体制を普遍の物ととらえていたので曹叡の政治がいかにも弱々しいものに映ったのですが、実際は魏の君主権は呉とは比較にならない程に強かったのです。
三国志ライターkawausoの独り言
豪族の力が非常に強いという呉の特徴は、孫呉の時代で終りではなく300年近く続く六朝時代も共通していました。西晋は江南に逃れて東晋になりますが、君主権が弱いのは、東晋、宋、斉、梁、陳の政権に共通しており、華北の政権が武力による興亡に終始するダイナミックなものであるのに対して、六朝は政争によるクーデターによって、君主の首がすげ変わる形の王朝交代が繰り返されます。君主権は豪族に比較して制限され、リーダーシップよりも豪族と協調し調停する能力が君主には求められましたが代わりに大きな戦乱もなく、江南には六朝文化と呼ばれる貴族文化が花開くようになるのです。
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