匤亭の戦いで袁術を破った曹操。しかし、時を同じくして悲劇に見舞われます。陶謙に父である曹嵩をはじめとする一族郎党を皆殺しにされてしまったのです。
曹操は憎しみからとんでもない復讐を決行。50万の兵を率いて徐州を襲い、十数の城を奪取し、数万人を殺戮。曹操軍が通過した後は鶏や犬の鳴き声もしなくなったとか。
親友・張邈
曹操には一人の親友がいました。聡明で徳の高いことで名高かった張邈という人物です。曹操と張邈、そして袁紹とはよくつるむ仲でした。しかし、董卓の反乱が起きてから、3人の仲がギクシャクしはじめます。袁紹は董卓討伐のリーダーとして振る舞っていましたが、その振る舞いに奢りを感じた張邈は、親友として袁紹を諫めます。しかし、袁紹はそれに怒り、張邈を殺そうとします。こんな袁紹をなだめたのが曹操でした。張邈はこれまで以上に曹操に対し信頼を置きます。
疑心暗鬼を生じた張邈
その後、呂布が董卓に敗れ、袁紹の元に身を寄せたことがありました。しかし、問題児の呂布の扱いに手を焼いた袁紹は、呂布を追い出します。追い出された呂布は、張邈を頼りましたが、ここで呂布と張邈は意気投合。以前のことがあってからギクシャクしていた張邈と袁紹の関係は、更に悪くなってしまいます。
呂布との親交を深めていくにつれて、胸にざわつきを覚える張邈。袁紹は私のことも嫌いだろうが、呂布のことをもっと嫌っている。呂布を迎え入れてから、曹操との親交も浅くなってしまった。曹操はそんな私を見限り、袁紹との通常を優先してしまうのではないか。曹操と袁紹に私は殺されてしまうのではないか。一度疑い始めると、次から次へと疑いがわきはじめ、張邈の心は真っ黒になっていきました。
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反旗を翻した張邈
憎しみの炎が消えない曹操は、何度も陶謙を攻めに出掛けていきました。ある日、曹操が留守にしたとき、陳宮に「曹操の領地を奪え」とそそのかされます。更に、曹操と仲が良くなかった弟・張超にも後押しされます。そこで、張邈は再び呂布を迎え入れ、曹操に反旗を翻しました。張邈と呂布はあっという間に兗州のほとんどを占拠。それを聞きつけた曹操の絶望と怒りは推し量るに余りあります。
濮陽の戦い
なんとか鄄城に帰った曹操は、さっそく呂布を叩きにかかります。鄄城で呂布が濮陽に構えていると知った曹操は、鼻で笑い飛ばします。「もし呂布が東平国を拠点とし、泰山郡へ続く街道を封鎖していたら、呂布にも勝機はあったのに。あいつは本当に馬鹿だな!この戦に勝のは我々だ!」
そうは言っても、相手は高祖・劉邦のライバルとして名高い項羽と並び称せられるほどの強者・呂布。簡単には負けてくれません。自慢の青州兵は呂布の并州軍に蹴散らされ、夏侯惇が片目を失うなどの大やけどを負う曹操軍。そんなとき、内通者が現れます。渡りに船だと思った曹操は、内通者に城門を開けてもらい、濮陽の城内に突撃!しかし、これが恐ろしい罠だったのです。
退路を断たれた上での火攻めを受け、城内を逃げ惑う曹操軍。曹操も大火傷を負いながら、叫びます。「黄色の馬で逃げようとしているのが曹操だ!」敵の目を欺き、命からがら濮陽から脱出。惨敗続きの濮陽での戦いは、蝗害により閉幕。しかし、曹操はその機転により難を逃れたのでした。
定陶の戦い
翌年、再び兗州奪還のために呂布に挑む曹操。今度は定陶郡へ進軍。そこでまず、呂布軍を撃破します。波に乗ってきたのか、呂布軍を何度も蹴散らし調子が出てきた曹操。しかし、今度はとんでもないときに呂布が攻め込んできます。兵たちの大半が城の外に麦を刈りに出かけおり、城内が手薄のときに呂布が現れたのです。
凡人なら慌てふためくところですが、曹操はすぐさま城内の兵だけではなく女子供・老人までを集め、彼らに兵の格好をさせ、城壁にならばせたのです。チャンスだと思ったのに、思わぬ伏兵が現れて呂布も城攻めを中止します。しかし、あれが伏兵だったと知った呂布は再び侵攻。ところが、今度は本物の伏兵がおり、再び呂布軍は敗れます。曹操は勢いに乗じて兗州を奪還することに成功したのでした。
愛憎は紙一重
兗州を奪還された張邈は袁術を頼ろうとしますが、部下に裏切られ殺されてしまいます。しかし、親友を裏切った罪はそれで許されることはありませんでした。弟の張超は焼身自殺、その他張邈の父母・兄弟・実子・養子は全員曹操によって処刑されてしまいました。愛は憎悪の始めという言葉もありますが、親友であったからこそ、張邈への憎しみがおさえきれなかったのでしょうね
※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。
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