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周瑜はいかにして魯粛を呉に引き入れたのか?

2018年6月16日


 

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周瑜と魯粛

 

 

あなたは呉の軍師といえば誰を思い出すでしょうか?おそらく周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)の名を挙げる人がほとんどでしょう。呉の軍師として二枚看板をはるこの2人。でも両者のイメージは何だか正反対ですよね。

 

周瑜は頭が切れる天才というイメージ。でも、魯粛は何だか冴えなくて常におろおろしているイメージ。「水戸黄門」のうっかり八兵衛(はちべい)のような殺伐とした雰囲気を和ませてくれる癒しキャラ的なイメージを持たれがちな魯粛ですが、実は、周瑜亡き後の呉を引っ張っていく呉で一番の功臣と評されているのです。そして、この魯粛を呉に引き入れたのが周瑜。2人の間にどんなやりとりがあったのでしょうか。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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何を考えているのかわからない…気違いと呼ばれた魯粛

魯粛

 

魯粛は徐州の大金持ちの豪族の子として生まれました。生まれてすぐに父親を亡くした魯粛は祖母と慎ましく暮らしていました、…と言いたいところですが、この魯粛の常人には考えられない突飛な行動は、人々を困惑させるばかりでした。

 

魯粛は生活に困っている人に、たくさんの施しをして暮らしていました。これだけを聞くとなんて素晴らしい人なのだろう!と感動さえ覚えるでしょうが、魯粛は自分の財産全てを投げ出す勢いで人助けに全身全霊で取り組んでいたのでした。魯粛の度が過ぎた慈善活動に周囲の人々も引き気味だったそうな。また、世が乱れに乱れてくると、おもむろに剣や弓、馬術を習い始めた魯粛。兵法の勉強にも力を入れ、兵を集めてかなり本格的な軍事訓練までおっぱじめた魯粛を見た長老は魯粛を「魯家の気違い」呼ばわり。

 

燕雀(えんじゃく)安くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんやなどという言葉もありますが、魯粛の突飛な発想や行動は、同じように大きな志を持つ人にもなかなか理解されないことが多かったでしょうね。

 

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周瑜、魯粛の噂を耳にする

周瑜

 

周瑜は呉の孫策(そんさく)と幼馴染。父・孫堅(そんけん)を亡くした孫策が袁術(えんじゅつ)の元で臥薪嘗胆の日々を送っている間、周瑜は孫策の力にならんと陰で奔走していました。孫策は揚州から劉繇(りゅうよう)を追い出し、ついには袁術から送られてきた袁胤(えんいん)さえも追放し。ようやく袁術からの独立を果たします。

 

この知らせを聞いた周瑜は、再び孫策の元に戻ろうと考えます。しかし、旅費がありません。困った周瑜は、ある噂を耳にするのでした。なんでも、大金持ちの魯家のドラ息子が、仕事もせずに馬を乗り回して剣をふるって飛び回り、貧しい人に金をばらまいて回っているらしい…これを聞いた周瑜は、この噂の主を訪ねてみようと思い立ったのでした。

 

 

一騎打ち

 

 

周瑜、魯粛に出会う

周瑜、魯粛に出会う

 

 

どんな人物なのかはわからないが、少しでも食料をわけてもらえたら…そのくらいの気持ちで魯粛を訪ねた周瑜。周瑜が魯粛に援助を求めると、2つある米蔵のうちの1つを周瑜に差し出したのでした。今日出会ったばかりの人に持っている米の半分を差し出した魯粛。周瑜は魯粛の突飛な申し出に驚きつつ、そんな申し出をする魯粛の意図を見抜き、魯粛の人となりを大変気に入ります。そして周瑜は魯粛との親交を深めていったのでした。

 

 

魯粛、周瑜と共に孫策の元へ

袁術の元を去る周瑜と魯粛

 

気違い呼ばわりされていた魯粛でしたが、その行動の大胆さゆえに高い名声も得ていたようで、一時期は袁術の配下として東城県の長となっていました。しかし、要領を得ない袁術の振る舞いに嫌気が差した魯粛は、私兵を連れて周瑜を頼ります。周瑜はこれをあたたかく迎え、共に長江を渡って孫策の元に走ります。孫策も周瑜が連れてきた魯粛を一目で気に入り、魯粛をあつくもてなしました。

 

 

孫策の死、曹操からのスカウト

周瑜と魯粛

 

孫策の元で過ごしていた魯粛でしたが、赤子のときから世話をしてくれた祖母が亡くなったために故郷に戻ります。そのとき、曹操軍についていた友人・劉曄(りゅうよう)から一通の手紙が届きました。共に曹操軍で功を上げようという内容でした。その頃、呉では孫策が急死し、孫権(そんけん)が後を継いだばかりでした。

 

楽しく将来を語り明かした孫策も亡くなってしまった。今度は友人からの誘いが来た。時の人ともいえる曹操(そうそう)についた方が、自分の力を振るえるかもしれない…。

 

孫策

 

魯粛は周瑜に曹操軍の元に行こうと考えていることを伝えます。すると、周瑜は猛反対。いかに孫権が優れた人物か、江南の地がどれほど恵まれているか、これでもかというくらい呉に仕える利を説きます。これを聞いた魯粛は呉に留まることを決意します。周瑜がこうまでしてでも手放さなかった魯粛は、周瑜の死後も、周瑜の期待通りの活躍を見せました。魯粛の才能を見抜いた周瑜の審美眼には驚かされるばかりです。

 

※この記事は、はじめての三国志に投稿された記事を再構成したものです。

 

元記事:魯粛に学ぶビジネス三国志!三国志の仕掛け人、魯粛の投資術

 

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李傕・郭汜祭り

 

 

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