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麴義はどんな人?アンビリバボー八百の兵で白馬義従1万を破った英傑





曹操と袁紹

 

曹操(そうそう)と華北の覇権をめぐって争った袁紹(えんしょう)の戦歴といえば、

官渡(かんと)の戦いで自軍の十分の一程度の兵力しかなかった曹操に敗れたことが有名です。

名門出身で勢力こそありましたが、合戦で華々しい勝利を挙げたようなイメージは

あまりないのではないでしょうか。

 

西暦192年、袁紹の軍は精強をもって知られる公孫瓚(こうそんさん)の騎兵隊

白馬義従(はくばぎじゅう)」を破って勝利しています。

勝利の鍵を握っていたのは将軍・麴義(きくぎ)

800人の歩兵で一万の騎兵に突撃をかけたクレイジーな猛将です。

 

※記事中、出典は〔 〕に番号を記し、記事末尾に番号に対応する書名をまとめて記します。

 

はじめての三国志全記事一覧はこちら

関連記事:許褚と賈詡がいなければ曹操は官渡の戦いで袁紹に敗北してた!

関連記事:官渡の戦いで袁紹が勝っていたら三国志はどうなっていたの?

 

 

麴義とはどんな人?

麴義とはどんな人

 

麴義は長らく涼州にいて、羌族(きょうぞく)の戦法に通じていました〔1〕。

最初は韓馥(かんぷく)に仕えましたが、韓馥は配下の豪傑たちが袁紹に心を寄せていることを問題視し、

それとなく兵糧の支給を減らし、豪傑たちが養っている兵士が逃亡してしまうよう画策したため、

麴義は韓馥に背き袁紹に投じました〔2〕。

羌族

 

のちに袁紹が反董卓(とうたく)連合に参加した際、おなじく連合に参加していた匈奴(きょうど)単于(ぜんう)於夫羅(おふら)

連合を裏切り張楊という人物を拉致するという事件がおこり、袁紹は麴義に於夫羅を追撃させました。

麴義は鄴の南で於夫羅を破りました〔3〕。

漢族とは異なる戦法を持った匈奴を打ち破ったことから、麴義の手腕のほどを知ることができます。

 

 

界橋の戦いに至るまで

公孫越

 

事の発端は西暦191年、公孫瓚の弟・公孫越(こうそんえつ)の戦死です。

当時、袁術孫堅(そんけん)を豫州刺史に任命していましたが、袁紹も周昻(しゅうこう)を豫州刺史に任命し、

周昻に孫堅の領地を攻撃させました。

 

袁術公孫瓚から援軍を得て周昻に反撃しましたが、

この時、援軍に来ていた公孫越が流れ矢に当って戦死しました。

公孫瓚は袁紹の手下に弟を殺されたことでカンカンに怒り、

袁紹はびびって自分が持っていた渤海(ぼっかい)太守の位を公孫瓚の従兄弟の公孫範(こうそんはん)にプレゼントして

公孫瓚の機嫌をとろうとしました。

 

渤海太守になった公孫範は渤海の軍勢を動員して公孫瓚に助勢し、

公孫ブラザーズ(いとこですが)は青州と徐州の黄巾党を破り軍勢はますます強力となり、

手下たちに冀州(きしゅう)、青州、兗州(えんしゅう)を支配させ、郡や県の長官を好き勝手に任命し、

華北をブイブイいわせるようになりました〔4〕。

 

このまま放っておくことができなくなった袁紹は、自ら公孫瓚征伐の軍をおこし、

両軍は界橋(かいきょう)の南二十里の地点で激突することになりました〔1〕。

 

まだ漢王朝で消耗してるの?

まだ漢王朝で消耗しているの  

公孫瓚の布陣――白馬義従による突破作戦

公孫瓚の布陣

 

公孫瓚の軍は歩兵三万の方陣を中央に置き、両翼に騎兵をそれぞれ五千あまり配置しました。

騎兵は中央に白馬義従、その両側に弓騎兵が配されていました。

白いお馬さんの具を弓騎兵のパンで挟んだサンドイッチ騎兵隊が2個あって、

歩兵の大軍の右に1個、左に1個いたということです。

公孫瓚の布陣

 

白馬義従とは公孫瓚軍の騎兵の精鋭部隊です。

公孫瓚は異民族と戦う際にいつも自ら白馬に乗り、追撃しては百発百中であったため、

異民族たちは互いに「白馬を避けよ」と言い合っていたそうです。

 

異民族が白馬を避けることから、白馬数千頭を選び、

騎乗しながら弓を射られる兵士を選りすぐって「白馬義従」と名付けました。

一説には、北方民族の血気盛んな戦士はいつも白馬に乗っており、

公孫瓚も強力な騎兵数千を保有し、その多くが白馬に乗っていたことからそう呼んだのだともいいます。

 

さて、白馬義従を挟んだサンドイッチ騎兵隊は、右側の騎兵パンが左側を、

左側の騎兵パンが右側を射るようになっていました〔1〕。

 

これはつまり、十字砲火で白馬義従の進路を確保しようという配置ですね。

以上の布陣から、公孫瓚の作戦は、白馬義従の突撃で敵陣を攪乱したところに

主力の歩兵三万を投入して勝ちを確定させるというものであったと知ることができます。

(弓の射線を聞いただけで十字砲火ってぴんとくる自分が怖いっすわ)

 

袁紹の布陣――ぽつんと置かれた先鋒

 

 

袁紹の軍は麴義の率いる八百の歩兵を先鋒とし、

それを挟むようにして強弩一千張がひかえていました。

袁紹自身は数万の歩兵を率いて後方に陣取りました〔1〕。

 

この布陣は、800人をぽつんと前方に置いておとりとして、

敵の騎兵がおとりを蹴散らしに来たところを強弩で滅多射(めったう)ちにしようという作戦でしょう。

このとき袁紹は前線より十里(約4km)後方にいたといいますが、

強弩が敵の騎兵にどの程度の動揺を与えられるか見極めてから

次に打つ手を考えるつもりだったのかもしれませんね。

 

戦いの推移

 

 

開戦早々、公孫瓚は騎兵を放って麴義率いる800人をつぶしにかかりました。

麴義の兵は楯の下にじっと伏せ、敵の騎兵が数十歩(一歩は約1.4m)まで近づいたところで

一斉に起ちあがり、大声をあげながら突撃を開始しました。

 

同時に強弩の斉射が始まり、公孫瓚の騎兵はバタバタと倒されていきました。

麴義の歩兵はそのまま公孫瓚の陣地まで攻め込み、

公孫瓚によって冀州刺史に任命されていた厳綱を斬り、

甲首千余級をあげました(かぶとをかぶった首を千個以上とりました)。

 

公孫瓚の軍は騎兵も歩兵も逃げ散ってしまい、麴義は公孫瓚を界橋まで追い詰めました。

公孫瓚軍のしんがりが反転して麴義を迎え撃ちましたが、麴義はこれも破りました。

 

そしてついには公孫瓚の本営にいたり、牙門(がもん)(本営の目印の旗が立っている門)を突破し、

本営にいた人々もちりぢりになって逃げることとなりました〔1〕。

 

その頃、後方の袁紹は……

 

 

麴義が敵を蹴散らしている頃、袁紹はまだ界橋より十里(約4km)以上も後方におり、

馬を下り鞍をはずしてくつろいでいました。

公孫瓚が敗れたとみて油断しており、身辺には直属の十数張の強弩隊と戟手百人あまりが

ひかえているだけでした。

 

 

そこに公孫瓚軍の騎兵二千あまりが通りかかり、

袁紹を何重にも取り囲んで弓を雨のように射かけてきました。

袁紹の部下の田豊(でんぽう)が袁紹を垣のかげに入らせようとしたところ、

袁紹はかぶとを地面に叩きつけてこう言いました。

「大丈夫たるもの進んで戦って死ぬものである。垣の間に入って生き延びようとするべきではない」

 

袁紹の強弩隊は公孫瓚軍の騎兵を多数殺傷し、

ここに袁紹がいるとは気付いていなかった騎兵たちはあえて追い詰めようとはせず

少しずつしりぞいてゆき、麴義が界橋から引き返して袁紹を迎えにきたため、

ついに退却しました〔1〕。

 

 

これにて界橋の戦い、袁紹軍の勝利となりました。

袁紹も根性を見せましたが、この勝利はやはり麴義のものですね。

 

麴義ミラクルを支えた信念と確信

 

一万もの騎兵が800人の自分たちをめがけ

て地響きを立てて近づいてくる時に、

じっと楯の下に伏せて待ち、しまいには突撃をかけるとは、並大抵のことではありません。

作戦を必ず成功させるという信念がなければできないことです。

 

誰か一人でも動揺してウロウロッとすれば、それが全体に広がって強弩隊も持ち場を離れ、

あとは騎兵の餌食となるだけだったでしょう。

麴義の先鋒が生き残る方法は作戦を成功させることだけでした。

 

兵士たちも一人一人がそのことをしっかり理解して確実に任務を遂行したんですね。

(『孫子の兵法』にある「これを死地に陥れて然る後に生く」の典型です)

とは言え、頭で分かっていても誰にでもできることではありません。

もし私が現場にいたら、突撃の号令が出ても楯の下に丸まったまま体がすくんで動けないか、

突撃したとしても怖すぎて上手に大声が出せないでしょう。

 

このとき麴義が率いていた兵士たちは、

こうすれば敵を破ることができるという確信を持ってそこにいたはずです。

絶体絶命状況からの逆転の経験を何度も持ち、その感触を知っている精鋭だったに違いありません。

 

公孫瓚はなぜ騎兵を弩の真正面に突っ込んだのか

 

通常、強弩が向けられているところへ真正面から騎兵を突っ込むことはしません。

しかし今回は強弩はたった千張、それに対して騎兵は一万。

馬の速度を時速60km、強弩の有効射程距離が200メートルだとすれば、

最初の一矢を受けてから12秒で弩がある地点まで到達できます。

 

12秒という時間では、弩兵は二本目の矢を装填して発射し、

三本目を装填する途中くらいまでしかできないのではないでしょうか。

仮に三本発射されたとして、それが全て命中したとしても失うのは3000騎、

残りの7000騎で強弩隊を無力化することは充分可能です。

 

この日の騎兵隊の描写として「旌旗鎧甲(せいきがいこう)、光照天地」とあり〔1〕、

鎧甲(よろいかぶと)を着用していたことが分かりますので、

3000本の矢で3000人がやられるはずもありません。

こう考えれば、公孫瓚が騎兵に突撃を命じたのもうなずけます。

景気づけに敵の小癪な先鋒を自慢の騎兵で真正面からぶっつぶして敵の士気を奪ってやろう、

というつもりだったのではないでしょうか。

 

一万騎が千張の強弩と八百人に敗れたわけ

 

白馬義従の立場から状況を考えてみましょう。

弩に向かって突撃をかけるのはもちろん怖いです。

しかしこれまで白馬を見ただけで敵が逃げていくというほど恐れられてきた白馬義従。

今日も敵の目の前まで迫ってしまえば敵は動揺して勝手に逃げていくだろうと

たかをくくっていたことでしょう。

 

実際、圧倒的多数の騎兵に襲撃された歩兵がじっと持ち場を離れないなどということは、

常識からしてありえないことです(麴義の部隊は常識離れした精鋭でした)。

いつ崩れるか、いま崩れるか、と思いながら馬を駆って接近していくと、

いつまでも崩れないままどんどん近づいてしまうので、しだいに恐怖にかられてきます。

 

ああもうおしまいだ! と思うほど接近した時点でおもむろに弩の斉射が始まって

前列からバタバタと倒れていき、かつ歩兵が大声を上げながら突撃してくれば、恐怖感はMAX、

後ろに続く兵士たちは我がちに逃げ出すしかなかったことでしょう。

 

冷静に考えれば充分優勢な自軍であっても、慢心→恐慌へと傾いた心理は誰にも止められません。

前列の馬が倒れたところに後続の馬が突っ込んでこけて隊列もぐっちゃぐちゃ。

いくらあっしが白馬義従でもこいつぁあもうどうにもなりませんや。スタコラサ。

自慢の騎兵一万が雪崩をうって潰走してくれば、後ろに控える主力の歩兵三万も

“あの白馬義従が勝てなかったんだったらもうおしまいだ!”って逃げるしかありません。完敗です。

無敵の騎兵隊を擁していると思って慢心していたことがあだとなりました。

 

その後の麴義

 

この後、麴義は烏桓の蘇僕延(そぼくえん)とともに公孫瓚を攻めて破り、

その配下二万以上を斬首し、公孫瓚を易京まで追い詰めました。

この易京が公孫瓚の終焉の地となるわけですが、それは何年も籠城した後のことです。

麴義は一年余り城を囲んでいましたが、兵糧が尽きて退却しようとするところを

公孫瓚軍に襲撃され輜重を奪われています〔5〕。

 

これが麴義伝説の中の唯一の敗戦の記録ですが、兵糧が尽きて退却するという時に

あえて敵兵を破る気もなかったでしょうから、空っぽの輜重を取られるにまかせて

さっさと引き上げたのは賢明といえるでしょう。

 

麴義はのちに功績をかさにきて驕慢(きょうまん)な態度をとったとされ、袁紹に殺されました〔1〕。

麴義の部下たちは袁紹軍に吸収されましたが、のちに逃亡し、掃蕩されました〔6〕。

 

三国志ライター よかミカンの独り言

三国志ライター よかミカンの独り言

 

界橋の戦いの勝敗を分けたのは、麴義の歩兵の信念と公孫瓚の騎兵の慢心です。

慢心していても、普通の相手なら勝てたはずです。麴義の歩兵が普通じゃなかったのです。

“敵の一万騎を千張の強弩と八百人で迎え撃つぞ”なんて言われたら、

普通の人間なら “わぉ、クレイジー!”ってすたこらさっさと逃げます。

それを “うぉーっ、やったるぞー!”っていうところまで持って行った麴義は、じつに非凡です。

 

そんな麴義を驕慢の一言で処刑するとは、いかにも惜しいですね。

「狡兎死して走狗烹らる」と言いますが、袁紹は兎を狩らないうちに処刑してしまったようです。

袁紹が天下を取れなかったのは、こういうところに原因があるのかもしれません。

 

出典

〔1〕『三国志』袁紹伝注に引く『英雄記』

〔2〕『資治通鑑』巻六十

〔3〕『三国志』張楊

〔4〕『三国志』公孫瓚伝

〔5〕『後漢書』公孫瓚伝

〔6〕『三国志』公孫瓚伝注に引く『漢晋春秋』

 

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関連記事:三国志演義と正史で大違い?劉備の恩人、公孫瓚

関連記事:北方の雄・公孫瓚が滅びた原因は○○だ!

 

赤壁の戦いを斬る!赤壁の戦いの真実
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よかミカン

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三国志好きが高じて会社を辞めて中国に留学したことのある夢見がちな成人です。

個人のサイトで三国志のおバカ小説を書いております。

三国志小説『ショッケンひにほゆ』

【劉備も関羽も張飛も出てこない! 三国志 蜀の北伐最前線おバカ日記】

何か一言:
皆様にたくさん三国志を読んで頂きたいという思いから わざとうさんくさい記事ばかりを書いています。

妄想は妄想、偏見は偏見、とはっきり分かるように書くことが私の良心です。

読んで下さった方が こんなわけないだろうと思ってつい三国志を読み返してしまうような記事を書きたいです!

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